2002年01月25日(金) |
ありふれた言葉をわかりやすく使うために。 |
「やさしい」とか 「かなしい」とか 「愛してる」とか 「せつない」とか
発達心理学によると、 言語あるいは感情の細分化は 歳を取るとともに行われるんだよね。 赤ん坊の頃の「快」「不快」という二極のみの感情が やがて喜怒哀楽になって、 さらに、やるせなさとかせつなさとか妬みとか そういった高度の感情認識へ細かく分類されていく。 それは認識されるものだけではなく、獲得していくものでもあって。
安部公房がとあるエッセイに残した名言(だと俺が勝手に思ってる)に、 「名付けるという行為がなければ、アメリカ大陸は発見されなかったであろう」 というのがあって、 概念認識には必ず言語獲得行為が付随するって話なんだけど、 じゃあ、詩的表現において、プリミティブ(原初的)な言葉を 有効に活用(配置)するためには、 その言葉の発生の源を、読者に再認識させるための装置が必要なんじゃないのかなと。 その装置はたとえば、 作品内における設定であったり、 他の言葉との比較であったり、 全体の流れの中のワンポイントであったり、 ま、いろいろあるけど、 ありふれた、ありがちな表現を響かせるためには、 「どうやって使うか」よりも、 「何のために使うか」を考えたほうが大切なんだと いつも思ってます。 そこに力点が置かれていない表現、あるいは作品は、 結局「ありきたり」で終わってしまう。 「ありきたり」と「わかりやすい」の差はそこにある。
細分化された感情、言葉が溢れるなか、 未分化の状態で使うのではなく、 細分化されたものを統合するために使ってこそ、 効果が現れるんじゃないかなと。
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