2002年04月27日(土) |
詩とナメクジと板門店。 |
ちと風邪っぽい。体が重い。 カレーを食って治すのだ(違)。
詩学の連載に続き、別の詩誌から対談依頼が舞い込む。 かなり大きめ。というか、大き過ぎ(爆)。 対談に備えて詩の勉強をやり直そう。
ま、詳細が発表できるようになったら発表します。 依頼を受けた本人がまだビックリしてる。
今年に入ってからネット詩だけについてはあんまり考えてないのね。 「ネット詩」ではなく「詩」について考えてる。 「詩」の観点からネット詩を考えてる。 「詩」の観点からネット詩の「責任」について考えてる。 あと2、3年で、「ネット詩」という“区別”がなくなるといいな。 なんてことも思ってたり。 言葉を消滅させるためには、その言葉を使う必要性をなくせばいい。
たとえば紙媒体の詩人たちがネット詩に流入してくれればいいと願う。 現状を見て、何故流入して来ないかを考える。 その要因は絶対に、紙媒体側だけにあるものではない。 入りづらくしている要因はネット詩のほうにもある。 そしてその整備はネット詩側の責任だと思う。 もっと単純に言えば、 目を向けてもらう準備はできた。次は、参加してもらう準備が必要。 ってことか? 逆もある。 ネットで詩を書いてる人が紙媒体に目を向けないのは何故? (すべてのネット詩人がという意味ではなく) その要因は紙媒体側だけにあるの? 違うよね。それは絶対に違う。 そういう部分を考えもせずに「普通に入ってくればいいのに」なんて言ってても、 そんなのはまったく説得力に欠けている。 家の周囲に塩が撒かれてあるのを気づかないまま、 ナメクジに向かって「どうぞお入りください」って言ってるようなもんだ。
お互いがお互いの場を自由に行き来できるようになれば、 ネット詩なんて言葉はあっという間に消滅する。 今はまだ必要だと思ってるけどね。 行き来できるようにするために、今はまだその言葉は必要。
かなりきわどいジョークだけれど、板門店が欲しい。 分断された場所を平和的につなぐための緩衝として。 あるいは「塩が撒いてありますよ」ってアナウンスするための場所として。 そしてその板門店がなくなるようにしたい。 板門店の役目がなくなるようにしたい。
今はまだ、板門店を必要とするくらい、我々は分断されている。
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