おひさまの日記
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2002年08月22日(木) だらしない一日

今日は何も予定がなかったので、アンナを保育園に送り、家の中のことを済ませた後、ずっとだらだらしていた。
ソファーに横になり、時には居眠りし、なーんにもしかなった。
なんだかすごく幸せだった。

以前は、何もしないでいることがとてもイヤだった。
自分がすごくいけない人間のように思えた、とても不安になった。
何かをしていないと落ち着かず、焦燥感に襲われる。
常に何かをしていないといけないような気持ちになり、
仕事、遊び、日々の雑事、あらゆることで自分のスケジュール埋めた。
とにかく、ひとり、ただボケーッとしていることが苦しかった。

でも、やっと、何もしない時間に、本当にゆっくりすることができるようになったと、改めて今日気付いた。
ミカエルさんのセッションを受けた時、
「何もしないでいる時間って本当に豊かなんですよね」
と、おっしゃっていただいて、今日はそういう時間を意識して味わうようにした。

そして、以前、自分が何もしないでいる時に感じた不安や焦燥感、悲しみにも似た感情に想いを馳せた。
今思うと、それは「恐れ」以外の何ものでもなかった。
以前、何かに取り付かれたように動いていないと不安だったのは、
自分がそこで何もしないでいることを罪悪に感じたからだと思う。
潜在的な自分の存在への罪悪感かもしれない。
自分は何かが欠けた存在であり、それを埋めるために必死に動き回り、何かをしていないと価値がないような、
そんな強迫観念がつきまとっていたのだと、今はわかる。

その時はそんなことで自分が動き回っていたとは思いもしなかった。
なんて私は充実してるんだろう、そう感じて、満足していた。
私が動き回って忙しくして得ていたものは、時に、魂の満足のための行為ではなかった。
あの頃の自分、それは、正当な行為に見せかけた恐れから逃れるための手段に溺れていた。

勿論、そんながむしゃらなプロセスで得たものだっていっぱいあるし、
がむしゃらにやってるのが楽しくてどうしようもない時だってある。
それはそれでいい。
相反するものは表裏一体、バランスだって大切だから。
要は、それぞれの本質の見極めと言うか、何と言うか・・・

「恐れ」が根底にある時、結局そこから生まれるのは増長した「恐れ」であると、ふと、今日思った。
私はたくさんのものに怯えていた。
多くの恐れに基づいて生きていた。
きっと、今もそうかもしれない。

でも、今日、それを見つめることができた。
自分が何かを恐れていると知るだけで、今までの自分の謎が解け始める。
そして、なぜ自分の人生の中の何かが狂い始めたのかが見え始める。
今日、ふとしたことで目にした中島先生の言葉が、私にそれをはっきりと教えてくれたのだ。
光を見た気がした。

だらしない一日は、私に大切なギフトを与えてくれた。

少し涼しかった今日、ソファーで横になる私にくっついて眠る猫の体温が愛おしかった。
生きている限り、人生に行き詰まることは必ずある。
けれど、それは、そこから先に進むために、何かを見せようとしているメッセージなのだと実感する。
ゆっくりでもいい、歩こう、自分の人生を。


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