おひさまの日記
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2002年09月23日(月) |
「どっちでもいいよ」 |
今日、私は「どっちでもいいよ」にひどく傷ついた。
事の発端は、午後から時間が空いた私がふと思い立ち「ららぽーと」に行きたい、と言ったことだった。 (千葉の人は知ってるでっかいショッピングセンターね) ダンナはひとこと「どっちでもいいよ」と、かなりダルそうに答えた。 「パパがおっくうだったらまたにしよう」と言うと、 「だから、俺はどっちでもいいんだよ」と再び答える。 「どうせ行くならみんなでノリノリで行きたいんだ」 「そんなみんなが同じノリでなんてことはないんだよ」 「・・・」 「どーすんの?行くの?行くなら行ってもいいけど。俺はどっちでもいーんだよ、別に。どーすんの?」 「・・・」 「俺、イヤな時はイヤって言うんだから、別に行ったっていいんだよ。どーすんの?」 私は心の中で、そうじゃなくて、そうじゃなくて、と繰り返した。 すげー、悲しかった。
演劇のセリフには「ポドテキスト」ってのがある。 セリフの言葉の意味でなく、その裏の意味のことだ。 私は彼の言葉のポドテキストが 「だからさー、行きたいんだったら行ってやるよ、どっちなんだよー、たりーなぁ、ちっ」 に思えたのだった。 彼にそんな気持ちはひょっとしたらないのかもしれない。 けれど、前後の会話ややりとりで、私はそう察知せざるを得なかった。
車の後部座席で、アンナを膝に乗せながら、バレないように泣いた。 世界中で自分がひとりぼっちになったような気分だった。 今日、私はそういう反応をしてしまうモードだったのかもしれないけれど、 それを考慮に入れたとしても、やはり、日頃からの積み重ねで傷つく。
夜中まであれやこれやとたまった家事をこなし、 寝かし付けようとしたけれど眠れないとだだをこねて戻るアンナを連れ戻し、 明日のゴミをまとめ、アイロンをかけ、洗濯物をたたむ私の後ろで、 テレビを見ながらゴロゴロし、手伝う気持ちが1ミクロンもないダンナを見て、 私の中で何かがパリンと壊れた。 手伝って、とひとこと言えればいいんだろうけど、 昔、家事を手伝ってほしいと伝えた時、ダンナにものすごくイヤな反応をされ、 立ち上がれないくらい悲しい思いをしてからは言えなくなってしまった。 きっと彼はそれさえも覚えていないんだろうけど。
ダンナは私がもし「別居しよう」とか「離婚しよう」と言ったら、 また「どっちでもいいよ」と言うのだろうか。
「どっちでもいいよ」って言葉が悪いわけじゃない。 その言葉がどう響くかは、その使い手の心ひとつなのだ。
夫婦って難しい。 アンナさえいなければ別居希望。
悲しいかな、プライベートではセラピストのパーソナリティなんてクソくらえなのである。
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