おひさまの日記
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以前、私は、 人はトラウマがあって辛くなるんだから、 いっぱい癒しを体験し、トラウマを手放すことが大切だと思っていた。
でも、最近、トラウマは別にあってもいいんじゃないかと思うようになった。 簡単に言ってしまうと、トラウマと共存すればいいのだと感じている。
けれど、その共存ができるようになるためには、やはりプロセスが必要だ。 そして、そのプロセスこそ、私達に最も必要なことであり、 それは、自分自身への深い理解なのではないかと思う。 人間に与えられた見えない精神の法則への深い理解ではないかと思う。
人生の辛い体験の多くがトラウマを原因としていることは否めない。 否めないと言うか、まんまそれだろうな。 小さい頃の辛い体験から、自分の中に形成された歪んだ観念、 その観念が成人した私達をいつまでもコントロールする。 時として、自分でもそれに気付いていない。
トラウマは心の傷。 傷は痛い。 痛いから触りたくない。 触って、過去の痛みを再びじくじくさせるのが怖いのだ。 見なくて済むなら見ない方がいいと感じるのだ。 見ないでなんとかやっていけるなら、その方がいいと。 だって、小さい頃、心に傷を受けて、心を閉ざして、 身を守る振舞いを覚えて、それでなんとか安全な場所を確保してきたのだから。 安全とまではいかないにしても、それ以上傷つかないようにして生き延びてきたのだから。 このままだっていいじゃない、意識の深い深い部分でそう思うのだ。
けれど、見ないでいても、それは見ないだけでそこにはあるから、やはり、痛む。 見ないからこそ、なんで痛むのかもわからない。 そして私達は思うのだ。 「どうしてこうなってしまうのだろう?」
私達は自分の「どうして?」の答えを知らない。 知らないのでどうすることもできない。 逆に、「どうして?」の答え、つまりその理由や原因を知れば、 私達は自分のルーツに出会えるのだ。
それが、トラウマとの共存への第一歩だ。
例えば、 いつも通る道に、すぐ吠えて噛み付く犬がいるとする。 だから通れない。 ガブッとくるからね。 以前に噛み付かれて痛かった。 肉は削げて、血がダラダラ、何針も縫った記憶がある。 でも、通らないと先へは行けない。 犬がいなくなるのが一番いい。 でも、その犬は凶暴で誰も手が出せない。 さあ、困った。 どうすればいいか? 簡単だよ。 他の道を通ればいいの。 ちょっと遠回りでもね。
その犬の例は、トラウマとの共存と同じだ。 まず、犬に噛まれて痛かったし怖かったから、 もう二度とあんな目に遭いたくないという自分を知る。 そして、これこれこうでこういう目に遭った、 それなら今度から絶対に先には行かない、そう決めた自分を知る。 けれど、その対策だと、二度と噛まれないんだけど、前にも進めない。 そこで、それよりももっといい新しい対応策があることにも気付いていく。 人生も同じ。
そう言うと簡単なんだけど、 ここには「恐れ」が存在し、新しい対応策に反発する。
またまた犬の例で言うと、 他の道に行けば?とアドバイスされた時に、 「ダメ!他に道にだってあんな犬がいるに決まってる! 無理!あり得ない!」 そう反応するのだ。 本当は他に道にはそんな猛犬なんかいない。 でも、その人には、どこに行っても猛犬がいるという恐れが染み付いている。 誰がどんなに「いないよ!」と言っても、信じられない。 どこの道にも猛犬がいるという、そんな幻想が真実に思えてしまうほど、 昔、犬にガブッとされたことが強烈に心に残って、そのあまりの恐怖から、 「もう二度とあんな目に遭うもんか!」 という強烈な自己防衛反応が働いているからだ。 あまりに強い自己防衛反応が、恐れを生み出している。 恐れることにより、事前に、昔味わったイヤな体験を繰り返さないようにしているのだ。
それが、私達全員が持っている「恐れ」の正体だ。 私達にはこの恐れがあるから、 「こうするといいよ」という的確なアドバイスや、 「本当はこうなんだよ」という事実を知らされても、 「それは違う!そんなことしても、どうせまた痛い目に遭うんだから!」 としか思えない。 そして、人はいつしかあきらめていく。 痛い場所を避けようとするがために、実は、痛い場所にい続けることになる。
この恐れの作業は、私達の意識の深い部分で無意識のうちに自動的に行われている。 誰も二度とイヤな思いしたくないもん。
こうして考えると、見えない精神の世界にも、ちゃんとした仕組みがあるのだ。
トラウマとの共存に話を戻そうね。
知らないものは怖いんです。 トラウマの実体も知らないと怖いんです。 でも、よくよく手に取ってじーっと見てみると、 本当は、怖いものじゃなくて、 昔、とても辛い目に遭って心に負ってしまった傷であり、 だからこそ、二度とそんな思いしたくないという 自分の必死の自己防衛が恐れとなっているわけです。 大人になった自分を救おうとする、小さな頃のけなげな自分のメッセージ。
トラウマをなくしてしまおうとすることは、 ある意味、そんな必死でメッセージを送っている小さな頃の自分の否定にもなる。 トラウマはなくすものではなく、理解するものなのだと、私は感じる。 しっかり理解すれば、なくさなくても共存できて、 そのうちに、自然と癒えることだって往々にしてある。
その作業は、怯える小さな子供をだっこして、 ほらね、よく見てみようね、よく見ると怖くないでしょう? おばけに見えたけど、これは自分の影だったね、と、 やさしく真実を伝える行為にも似ている。
トラウマを知り、認め、共存することで、 私達は、自分の中の小さな子供に、 「あなたが怯えていたものは、もうここにないよ。 とっても怖かったね、辛かったね。 でも、もう大丈夫なんだよ」 と、愛を与えることができるのだと、私は思う。
トラウマを「抑圧した感情の固まり」だと表現する人もいる。 私もそうだと思う。 甘えたり、泣いたりしたら、親に怒られる子供がいて、 甘えること、泣くこと、つまり自己表現を自分に罰し続けてきた場合、 そこには、感情の抑圧が発生する。 本来あるものを抑圧するのだから、それはとても苦しい作業だ。 傷には、外から受けた言動によって傷つくことと、 そうやって自分の内側の作業できずつくこと、その両方がある。
そんなトラウマとの共存にはプロセスが必要だ。
それは、今の自分の人生で、 問題がある領域、うまくいかない領域、心が痛む領域、 そこに、どんな恐れが存在するのか、それを知ること。 その恐れは今のあなたのものではなく、小さい頃のあなたのものであると知ること。 恐れがあることがいけないことではないと知ること。 そして、自分はどんな感情を封印してきたのか知ること。 いずれも急ぐ必要のない作業ではあるけれどね。
トラウマとの共存は、それに始まり、それに終わると言っても過言ではない。 私達はつくづく自分のことを知らないのだから。
恐れとは、あなたの中の小さい子供が、 あなたを守るために届けてくれた精一杯の贈り物。 恐れる気持ち、寂しい気持ち、悲しい気持ち、腹立たしい気持ち、 すべて、すべて、そこにあっていいもの。 トラウマが生み出すものすべてと真正面から向き合う時、 私達は、けなげに、必死に、生きていた小さい自分に出会う。 それに出会った時、私達の人生で何かが動き始める。
私の仕事って「自分を深く理解する」ためのものではないかと強く思う。 自己理解のプロセスとしてあるのがセラピーやカウンセリングだなぁ、って。 だから、私に出会った人で、全然変化がなくても、 たったひとつ、何かを知ってもらえただけでいいのかもしれないって思う。 何年後かに、その人が、ふと私とのセッションを思い出し、 「あ!あの時エイミーが言っていたのはこれか!」 と、思ってもらえたら、これほど嬉しいことはない。
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