| 2002年04月24日(水) |
★ 周防大島にて ★ |
5時半起床。昨日、ビールと城山郷という地酒の力に負けてアップできないで眠ってしまった日記をかく。 今日は7時ぎっちりに朝食をいただいてでないと、8時55分の周防大島行きの船に遅れる。 支度をして6時55分には、下へ。おばあちゃんがいらっしゃった。昨12月に泊まったときに、彼女が焼いたばかりのアップルパイを食べていいモノだと思って食べちゃんタラ、それはお昼のもようしもののようにやいた、とわかってお詫び。 昨夕も、ほら、アップルパイを食べてしまった・・といったら、笑って覚えとるよ、ようきたねといってくださった。 ここの玄米ご飯と、豆腐の味噌汁はおいしい。味噌、米自家製だからなあ。 おかずもしっかり食べて、まじめなミカンジューズも飲んで、コーヒーで仕上げて・・・7時15分。向かいに座った、スイス人のお兄さんに日本を楽しんでねと声をかけ、愚痴だらけの九州から来た車遍路のおじさんにがんばってね、と肩たたいて4階にかけ登ってにをとって降りてきた。 「またおいで、大島のお遍路もいいんよ、5がつ1日からじゃけど。やったら、ええよ、いってらっしゃい」とおばあちゃんが合掌で見送ってくださった。 はい、また来ます。ありがとう。
船の出る三津浜港、8時30分着。高速船のお値段、なんと2170円、高いねえ。それに私は高速船てあんまり好きじゃない。だって潮風に当たれないんだもん。帰りはフェリーにすることにしよう。1600ほどですこし安いし。
9時40分すぎに着いたモノの港はがらん、乗っていた人たちも一人降りただけ。後の人は岩国まで行くようだ。 窓口で、バス乗り場をきくが、なんか方言がきつくて、よくわからん・・・松山とだいぶん違う。
それでも何とか、狭いとおりで見つけた。 バスは10時13分、まだだいぶある。 そのうちに人が、1人2人と集まってきてバス停は世間話の花が咲き出した。 10時14分に油宇(ゆう)行きのバスがいく。誰も乗らない。時間的にはぴったりだけど、これが戻ってくるんだろうと、とりあえず時間割を確かめると、ない。えええ・・もしかして・・・。 「あの、私、久賀のへ行くんですが・・・」 花が咲いている方へ声をかけると、「だったら、今のバスに乗らないけんよ」「ええ、だって油宇、ってかいてありましたよ」 「私らは、病院にいくん、」と、一人が来た病院バスを指しながらいう。そ、そうなの。病院に行くにしてはみなさんお元気じゃないのよ。 「まっちょってよ、運転手さんに頼んでみてあげる」 ありがたい。でないと、また1時間半ばかり待たないといけなくなる。 OKがでた。前の席のおばさんたちが席を倒して、ほらここ、ここおいでと声をかけてくれた。 油宇とバスにはあったといったら、こんな天気じゃし運転手もおおかたぼんやりしとんのじゃろう。 はあ・・・ このへんのもんはしっとるし、乗るが、しらんとなあ。 周囲でいろいろとご意見が出てかしましい。 今日はガスが出てぼやん、むあんとした気配ではあるのだが・・・ねえ。 病院バスは、みなさん元気ですね、といったら、このバスに乗れる人は元気なんよ、とばっちり化粧の人の良さそうなおばさん。げんきで、病院? 途中で、油宇とつけたまま走っているバスにあう。バスを止めて運転手に大畠駅行きにしろと、みなさん親切に教えて、私は下田というところまでつれていってくださった。 隣のおばさんが「よかったよ、ここまでで、800円ばかり違うよ、今日はいいことあるよ」。そうか。得したって訳だ。でっかい声で、お礼を言っていって病院バスを降りた。何人かのひとが手を振ってくださった。 待つこと5分、さっきのバスが来た。
道は国道らしいが、延々と海沿いを走る。 宿の「オレンジランド」は宗光西。 11すぎに着いた。 4時まで部屋には入れないが、荷物を預かってもらう。いったら、ご主人が待っていて、椋野まで送りましょうか、といってくださった。 次のバスに乗るつもりだったので、ありがたい。目指す茂平衛堂はそこにあるのだ。 「横浜のどちらからですか」といろいろときかれたので、もしかしてお住まいになっていたことが?といったら、まえに新横浜にいたという。なるほど。
茂平衛堂は川に沿って竹林のわきの道をぐんぐんと登った高台にあった。その気配は遍路道のような・・・。 りっぱなお堂だった。 正面にお大師さん、その背後にお墓があった。 昭和58年、4月24日、善通寺の管長さんが来て開眼会をしたという。 24日って、今日だ。ご縁。 静かな、鳥の声だけがする場所に茂平衛さんは眠っておられる。 いいとこじゃないか。なぜ彼は帰らなかったのか・・文殊山という600メートルほどの標高のお山の中腹までミカン畑。豊かな村だと感じる。 お参りをして、お線香を立ててそれが燃え尽きるまでお堂の縁台でのんびりとした。心地のいい場所だった。 あすもこよう。
歩いて、宗光まで帰る。宿の主人は、78キロといったが、4キロやっとだろう。私の足で1時間かからずにもどったから。 このへんから先にに町の中心がある。
旧道を歩く。 島八十八ケ所がある。 役場に行って、道を聞きがてら、誰か郷土史家を紹介してもらえないか、と頼んでみた。 簡単かつ親切にことは運び、明日の昼からお会いできることになった。 久賀長の郷土資料館へ行く。 なんとここは、あの宮本常一博士のお生まれになった島だったんですね。 資料館は彼のお声がかりで昭和47年に集めた民族資料がいっぱいだった。 みごたえがあった。懐かしいモノもあったし。 特に国の文化財指定を受けているという醤油ダルの見事さよ。 江戸期、この島はいわゆる武士のいない、農、町民の島であったらしい。 1100年代に作られた岩風呂や薬師堂も見る。 帰りの道を聞いたら、なんと役所の女性が宿まで送ってくださった。親切だあ。 ありがたい・・・。
宿のフロントにいたご主人と少し話して、(なんと南極の石があったのだ、グリーンランドの石にいていた)夕食。 町の雰囲気、活気にはかけるが、のんびりとして人は穏やかで。 そんな一日だった。
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