| 2009年08月14日(金) |
「転生 古代エジプトから蘇った女考古学者」をよんで |
子どものころから、おもしろい本を手に取ると、とにかく時間を惜しんで、道を歩きながらであろうと、読んだ。 おかげで、電柱に頭をぶつけたことは数回あり。 昨今(といってもかなり昔)の記憶では、佐藤優氏の「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」がそうだった.夕飯を食べてから読み出して、読了したら朝方だった。 おもしろくて止められないんだもん。 「霊界通信 小桜姫物語」もかなりおもしろかった。 「私の遺言」(佐藤愛子)もかなり。 しかし、今回読んだ、「転生」はもうやっぱり、寸暇を惜しんで・・だった。 朝、末弟のお世話から帰り、お昼にお盆で帰ってきている父や弟イサオへのお供えにとチラシ寿司を作る準備をして後はもうどっぷり。 昼近く、チラシを作りもっていって、供えてみんなで食べて母を麻生の湯に連れていって送って。 で、帰ってきて、またまたどっぷり。 窓からの気持ちのいい風を受けて、ラジオで高校野球をかけて、ごろしながら一気に読了。夕方6時過ぎだった。 この生活って、ネコ系人間だった私の究極の夏のお楽しみ生活。 それこそ、蘇ったつかのま。 今日が完全休でよかった。 くつろいだ。 結局のところ、本を読むというあまり生産的じゃない行為と考えるという見えない行為が私には最上の楽しみだということだ。 これだけは、何をする気もなくなった私に残った。
さてこの奇怪なタイトルの本について。 ドロシー・イーディー。1907年生まれのイギリス人。女性。 3歳のときに階段から落ちて、仮死状態に。それ以来、不思議な夢を見るようになった.さらに、エジプトに対するすごい執着が始まった。 少女時代、大英博物館にいって、エジプト室から離れられなくなって、ヒエログリフをみていう「この字、私、しっている」 ヒエログリフといえば、私もいたく興味があって、若かりしころ(30代)に、ヒエログリフ(「死者の書」)を読む講座に1年くらい通ったことがある。いま思えば、かなり変わっていたと思うが。今や全然おぼえていないけど、古代エジプト人は、現在の生活を霊体になっても続けるという死後世界観を持っていたということはおぼえている。 死ぬと、カーというその人の生前の行いを判定する神さまが待っていて、天秤に羽みたいな真理判定の重りをのせて、もう1つの天秤に死者のの心臓をのせて、その罪をはかるとというもの。 その後、エジプトに行って、この話とカーという神さまの姿はおぼえていたら、お墓めぐりの時に確認したものだ。
おっと、話が脱線した。 ドロシーはついに自分が前世になんであったのか知る。 自分はエジプトにいた。 3歳の時に、セティ1世神殿に捨てられて巫女になった女の子だった。しかし、神殿においでになった、セティ1世と恋におちて妊娠、それは巫女ゆえに許されない行為であって、自殺した。 やがて、彼女はエジプトの若者と知り合って、カイロに渡り結婚する。 しかし、息子(セティという名前)を授かるが、夫は新しいものが好きで、彼女の興味は古代エジプトにしかない.離婚。 やがて、カイロの考古局に勤め、デッサンの技術や、ヒエログリフへの造詣の深さで一目置かれるようになる。 そしてついに、アビドスのセティ1世宮殿にすみつき(前世にいたところ)生涯をおえる。 彼女は、昼はエジプト学者として働き、夜にはセティ1世と逢瀬を重ねるという幻視の世界に入ったのだ。 彼女は1981年4月21日に他界した。 (セティ一世のところに旅立った) 幻視の世界でおもいだしたことや、夜にやってくるセティ1世に教えられたことで、アビドスで新しい発見をしたりすることで、彼女のエジプト学者の間で知られるようになっていくのだ。 外側から見れば貧しく、動物たちと一緒に暮らすような衛生とは無縁の生活、しかし、古代エジプトのまじないを使って付近の人たちの病をなおしたり相談にのったりして完全にエジプトの田舎を「最上の地」として生きていた。 そして「わたしはこの生活で満足、幸せ」といっていたとか. 明るくて元気で、辛らつで楽しい人だったらしい。 なお彼女は、エジプトでは「オンム・セティ」と呼ばれていた. 「セティの母」 エジプトでは名前をいうと悪い霊に取りつかれたり、呪いにかけられたするので、こういういい方をするらしい。言霊だね. 著者のジョナサン・コットは、ニューヨークの作家、詩人で、著名な音楽家へのロングインタビューで有名な人らしい。 最後に一言でいうと「本当に前世はあるのか、彼女はそこを生きていたのか、それともたんにキチガイなのか」を探求している。 結論は出ない。 しかし、大事なのは、彼女がその生を充実のうちに閉じたということ。 イギリス女性がエジプトにくらし、エジプト学を極め、成果を出し、現世の生活において険しく困難の道を歩んで、その生を充実のうちにまっとうしたということ。 その充実が前世との関わりであったとしたら、前世のあるなしや科学性はどうでもよくはないか、という結論に達している。(とわたしは読んだ) いや、その通りだ。 そういう意味では、わたしは前世療法は、肯定する。 前世を知ることで、というか退行催眠でわかることで、現世の不調和が軽快して元気になれるのならそれでいいのだ。 前世のあるなしは、だれにもわからない。 「ある」と信じることで、人はよりよく生きられるのではないか、と思う。 現世のさまざまな欲望を否定はしない.しかしただそれだけでのみ生きるとするなら、それは動物人間だ。まさに「人はパンのみで生きるにあらず」 前世も霊界も見えないけれど「存在」する。 前世で出来なかったことを極めて、より高い魂を持って霊界に帰っていく。 こう考えて、日々を精一杯に良心に恥じないように暮らしていくことで霊長類の仲間入り「霊的な人間」になれるのではないか、と思うのだが。
お日さまが出た。 気持ちのいい日.でもすでに秋の気配だ.
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