七里ヶ浜 稲村ガ崎から小動岬まで数キロにわたってなだらかに続く海岸は七里ガ浜と呼ばれています。「鎌倉志」によれば、名の起こりは関東道の七里によります。海水浴には不向きですが、海はサーフィンを楽しむ若者であふれます。景勝地としても知られ、手前に江の島、奥に富士から箱根、伊豆までの連山が見渡せます。江戸期には多くの浮世絵に描かれました。近辺は昭和中頃から開発が進み、人口が急増しました。 主人公たちが通う高校の最寄り駅。また海岸は、この近くの高校の授業や部活の練習地として使われることもあるそうです。ただ、鎌倉高校と七里ガ浜高校の2つを混ぜてモデルにしているみたいなので、そこがちょっと難しいところ。 運命の迷宮では、弁慶とレストランに行くイベントがあります。海の見える、潮騒の聞こえる店がキーワード。立ち寄った際に、探してみては?
腰越 腰越は古くから鎌倉への入り口(宿駅)、そして漁業の村として栄えてきた。義経が鎌倉入りを止められた際に頼朝に書いた腰越状は満福寺に展示されています。その他にも義経や弁慶のゆかりの品も色々とあります。 腰越状とは、一一八五年五月二十四日、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを止められて腰越に留まっていた時、満福寺で心情を綴った手紙です。 一一八四年、源義経は後白河法皇から平氏追討の功績から左衛門少尉に任じられ検非違使となりました。しかし、この任命は源頼朝の許可がなく行われたもので、一の谷、屋島、壇ノ浦と次々と平氏を打ち破ってきた名将義経に対して、「武士による政権」を作りたい頼朝は義経の無頓着な行動や政治方針等の違いで、頼朝は義経へ不満持っていました。頼朝は、この任命にたいして強く不満を持ち、以来頼朝と義経の仲は悪化していきます。一一八五年五月七日、義経は頼朝の怒りを解こうと鎌倉に向かいましたが鎌倉に入ることが許されず、義経は、腰越の満幅寺(腰越)に逗留し、五月二十七日一通の嘆願状を書いて、頼朝の信望が厚かった公文書別当大江広元に差し出しました。これが腰越状です。 この書状には読む人の心に切々と響いてきます。兄の心はどう変わろうとも、兄への服従する気持ちは絶対に変わらないことを述べています。しかし頼朝の怒りを解くことが出来ず、重い足取りで京へ戻っていきました。 ◇満福寺◇ 鎌倉市腰越2-4-8 9:00〜17:00 ◇アクセス◇ 江ノ電腰越駅から徒歩3分
報国寺 このお寺は、一一三四年、天岸慧広の開山により創建されたと伝えられ、開基については足利尊氏の祖父、足利家時とも上杉重兼ともいわれています。本堂裏手には孟宗竹の竹林が広がり、「竹の寺」として訪れる人々を魅了します。竹林の奥には小さな茶席があります。 三門をくぐり右側の石段を登ると本尊の釈迦如来坐像が祀られている本堂があります。本堂の右手に迦葉堂、左手にかやぶきの鐘楼があります。数多くの文化財がありますが、殆どは現在、鎌倉国宝館に所蔵されています。 ◇報国寺◇ 鎌倉市浄明寺2−7−4 9:00〜16:00 竹の庭拝観料200円 ◇アクセス◇ 浄明寺バス停から徒歩3分
北鎌倉駅 上りホームの鎌倉方端に駅舎があり、下りホームに移るには構内踏切を渡らなければならない。 ◇北鎌倉駅◇ 鎌倉市山ノ内 JRの営業時間 ◇アクセス◇ JR北鎌倉駅
円覚寺 鎌倉幕府八代執権北条時宗は一二七八年から文永の役の戦没者の菩提を弔うためと、己の精神的支柱となった禅道を広めたいと願い円覚寺創建を始めました。そして、一二七九年に来日した中国僧・無学祖元を開山に招きました。 円覚寺の名前の由来は建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことから、また山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞」があります。 円覚寺は一二八七年以降たびたび火災に遭っており、中でも一三七四年の大火、一五二六年の里見義豊の兵火、一五六三年の大火、一七〇三年の震災などの被害は大きく、一九二三年の関東大震災でも被害を受けています。創建当時には塔頭が四十二ある巨大寺院だったが、現在は元禄時代に再建された十八の塔頭が残るのみで、一般公開されているのは仏日庵と黄梅院です。 三門(山門)は、一七八五年、大用国師誠拙周樗が建立したものと言われています。「円覚興聖禅寺」の額字は伏見上皇筆とされており、上層には十一面観音、十六羅漢像などが安置されています。 ◇円覚寺◇ 鎌倉市山ノ内409 8:00〜17:00 (11月〜3月は〜16:00) 拝観料200円 ◇アクセス◇ JR北鎌倉駅すぐ
鎌倉駅 鎌倉駅は、JR東日本と江ノ島電鉄の駅です。 ◇鎌倉駅◇ 鎌倉市小町1 JR・江ノ電の営業時間による ◇アクセス◇ JR・江ノ電鎌倉駅
大倉御所 現在の清泉小学校周辺が、大倉御所跡と云われ、その石碑が小学校の南西脇に置かれているだけです。頼朝が、鎌倉に入りまず必要なのが自らの住居であり、当所は、父・義朝の居館跡地を候補と考えたようですが、既に、その地(寿福寺)は義朝の霊を慰める小さなお堂が出来ていた事もあり、この大倉の地を居とすることになりました。そして、この居である大倉御所が、幕府政務の場所ともなり大倉幕府とも呼ばれています。清泉小学校の堀沿いを歩けばすぐに見つかりますが、石碑は1つではないので少しややこしいかもしれません。 また、大倉御所跡のすぐそばには、源頼朝の墓があります。この墓は、源頼朝と縁深い薩摩の島津重豪が造ったといわれています。 ◇大倉御所◇ 鎌倉市雪ノ下3 散策自由 ◇アクセス◇ JR・江ノ電鎌倉駅から徒歩約10分 清泉小学校の塀沿い
若宮大路 若宮大路は、鎌倉市の由比ヶ浜(滑川交差点)から鶴岡八幡宮に通じる参道であり、同市の目抜き通りの一つです。源頼朝が鎌倉入りしてから二年後の一一八二年に妻・政子の安産祈願のため造られたものです。平安京の朱雀大路を参考にして、鎌倉の都市計画の中心軸と位置づけられていました。現在は神奈川県道21号横浜鎌倉線の一部です。 途中3つの鳥居があり、由比ヶ浜側から「一の鳥居」「二の鳥居」「三の鳥居」といいます。 二の鳥居から三の鳥居までの間は、盛土によって道の中央が一段高くなっており、段葛(だんかずら)と呼ばれています。 段葛は遠近法によって実際の距離より長く見えるよう、鶴岡八幡宮側に道幅が狭くなっています。 現在の段葛は道の両側は桜並木になっています。そして桜の木の根本の低いところはツツジが植えられています。 ◇若宮大路◇ 散策自由 ◇アクセス◇ JR・江ノ電鎌倉駅すぐ
朝夷奈 鎌倉の町の東側に設けられ、六浦に通じる金沢街道の切通で、鎌倉と金沢を結ぶ国の指定史跡で鎌倉七口(仮粧坂、亀ガ谷坂、大仏坂、巨福呂坂、朝夷奈坂、名越坂、極楽寺坂)のうちの一つです。鎌倉幕府が尾根を切り開いた道で外部からの敵の侵略にそなえて、曲がりくねった細い道で、昔の面影を残す数少ない史跡の一つです。 この切通の朝夷奈の名称に就いて次の様な伝説が伝えられています。頼朝時代の侍所の初代別当和田義盛の三男朝夷奈三郎義秀が一夜の内に切通を切り抜いた事からこの名がついたと言われています。 現在の切通の状態は当時のままではなく、竣功後もしばしば改良工事が行われています。かながわの古道50選にも選ばれていて、静かな古道の雰囲気を堪能できる道です。 ◇朝比奈◇ 鎌倉市十二所 ◇アクセス◇ 京浜急行バス太刀洗行、又は金沢八景行き朝比奈下車徒歩4分
星月夜の井 行基という奈良時代の僧が、ここで虚空蔵求聞持の法を修行しているとき、井戸から輝く黒い石を拾い、その石で虚空菩薩像を彫り安置したとかその石を、虚空菩薩像の化身と思いお堂を建てて祀ったと言われている「虚空蔵堂」が極楽寺切通ののぼり口に鎮座しています。 そのお堂の手前の道の脇にある井戸が、鎌倉十井の一「星月夜の井」です。「昔はこの井戸の中に、昼でも星の影が見えたのでこの名が付けられました。 ある日、近所の人が誤って包丁を井戸の中に落としたので、このとき以来星影が見えなくなりました。」と新編鎌倉志では述べられています。 昭和初期ごろまでは、ここの井戸で水が売られていたそうです。 ◇星月夜の井◇ 鎌倉市坂ノ下18-28 散策自由 ◇アクセス◇ 江ノ電極楽寺駅から徒歩7分
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