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2002年01月27日(日) 「青春の終焉」

 三浦雅士の「青春の終焉」という評論を読み始める。
 
 雨の音を聴く薄暗い夜明けから、俄に晴れ上がり白い光が部屋に注ぎ込む昼へと、なんとも美しい日曜日であるのに、わたしの仕事は遅々として進まず、悶々としている折りに読み始めた。

 20世紀初頭から日本に流布し、日本の近代文学界を席巻した「青春」ということば、60年代後半の学生闘争と共に死語となってしまった、当時は「人生」に置き換わりさえした「青春」ということばの概念を、解き明かそうとするこの書物。

 ゆっくりと序章を読み終えただけで、もう今日という1日が価値あるものに思えてくる。
 何にも出会わない1日ほど淋しいことはない。そして、こういう書物との出会いが、わたしの無為な生活に輝きを与えてくれる。

 読み終わったのはまだ序章だけだし、それを要約して伝えることも意味がない。

 ただ、本書読書中の印象とは関係なく、引用されていた三島由紀夫の文章を、是非、写してみたくなる。(※の注は、ワタクシがつけたもの)

***


「佐藤春夫氏についてのメモ」       三島由紀夫

 大正以後の作家の成長には或る型がある。一様に青年期には、時代の頽廃を一身に背負ったやうな観を呈する。彼はその自らの頽廃を精選する。頽廃の精髄をつかまうとする。さうしてゐるうちに、自分であれほど自信を抱いてゐた頽廃の根拠があやしくなる。頽廃と見えてゐたものは、実は青春の別名であり、近代西欧の教養の洗礼にすぎなかったとも思はれてくる。このとき、徐々に作家の本来的なもの、風土的なものがあらはれてくる。そして青春と壮年、西欧と日本との調和や総合が企てられはじめる。
 明治以後、西欧とは日本にとって青春の別名であった。これを裏からいふと、青年の嗜好に愬へぬ(※)ような西欧思想は、ひとつとして輸入されず、又たとへ輸入されても、ひとつとして普遍化されなかったと云っていい。
 さて、詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青年の形態を一生引きずってゆくものである。詩人的な生き方とは、短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。

 これだけの前置きが、どうしても佐藤春夫氏を語るために、私にとっては必要であった。

 小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。
 かういふ小説家的人生と、詩人的人生との、明瞭な、しかしイローニッシュな対比が、芥川龍之介と佐藤春夫との間に見られる。芥川は小説家である。彼は本来、自分の青春から脱却して生きのびるべきである。それなのに、それを果たさずして芥川は死んだ。佐藤春夫は詩人である。氏は自らの青春に殉ずべきである。それにもかかはらず、氏は老来ますます壮健である。(※)この対比は、まことに皮肉で、運命的だった。

 青春の懲罰を一生受けつづけねばならぬといふことに詩人の運命を見て、おめず臆せず、その運命に従って生きてきた氏に敬意を払ってゐる。


※愬=訴(愬は、訴より、心的情的な「うったえ」に使われた漢字)

※三島はこれを別の文章では、
「本来夭折すべき作家が生き長らえ、しかもその危険な青春から身をそらせて生きたとみえてじつは果たさず、青春の衣裳をそのまま着つづけて(もし夭折していたら美しい屍衣になっていたであろうものを)、おのれの青春に対する盲目的誠実が、ついには、そのまま不誠実と化してしまったドラマ」
と言い換えており、佐藤春夫が青春の美に殉じなかったことを惜しみ、にもかかわらず生き延びてしまった姿を憐れんでいる。憐れみもまた、美の鑑賞のひとつの形態であるとして。


***

 益のない写しなどし、相変わらずの無為の中、こうしてまた1日、終わる。


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