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2002年02月03日(日) |
奇跡の泉 ●アレクセイと泉(本橋成一監督) |
友達に誘われて、「アレクセイと泉」という映画を観てきた。
舞台はチェルノブイリ原発事故で汚染されたベラルーシ共和国のブジチェ村。 かつて600人が暮らしていた村も、今は55人の老人と一人の若者アレクセイ(映画撮影中に35歳になった)が暮らすのみ。
カメラは淡々と、一人の若者と老人たちの暮らしを追う。ドキュメンタリーのナレーションも、アレクセイのたどたどしい語りだ。
朝が来れば、泉から水をくむ。昼は労働する。食事をして、家族の時間を過ごして、眠る。 暖かい季節は短く、一年分の作物を急ぎ足で育て、収穫する。 長い冬は厳しく、寒いときは寒さをこらえて過ごす。 自然にも、時間にも、老いにも、何にも逆らわない、地に足のついた人間の暮らし。
この村はひとつの不思議に支えられている。 学校跡からも、畑からも、森からも、採取されるキノコからも、放射能が検出されるのに、この村の「泉」の水からは検出されないのだ。
こんこんと湧き出る泉から毎日の飲み水を得、家畜を育て、食物や衣料を洗って、大事な泉と共存する老人たちは、自慢げに言う。 「この泉の水は、百年前の水だからね」 そして村を出て行かなかった理由を問われると、 「ここにはきれいな泉があるから。ほかにどこでこんなきれいな水が飲めるか」と答える。
(でも何故? たとえ汚染以前の水であっても、泉には雨も雪も混じるのに!)
そしてただ一人村に残った若者アレクセイは、老人でまかなえない村の仕事を一手に引き受けて暮らし、先々も出ていくつもりはないと言い、その理由をこんな風に語る。 「もしかしたら、泉が僕を村にとどまらせたのかもしれない。泉が僕のなかに流れ、僕を支えている」
泉の水は、地表に下り大地に浸透してからどれだけの時間を経て湧き出ているのだろう? 老人たちが言うように、100年だろうか? それとも、老人たちの言う100年は、自分たちの人生も追いつかない長い長い時間、という意味なのだろうか? 長きに渡って大地の深みにとどまり、静止にも見えるゆるやかな旅をする内、濾過され、純化され、(敢えて言ってしまうなら)聖化された水。とめどなく「今」に溢れ続ける「いつかずっと以前」の水。 そして、汚染された大地に再び湧き出ても、自浄して生き続ける奇跡。
人間の体の60%が水分だと言う。 わたしは泉の水を愛して暮らす彼らの体の中を流れる水のことを思った。生まれてからずっと同じ泉の水を飲んで育った人たちの体の中の水のことを。 人間は、こんなにもきれいだ、と感じる。
そして、(陳腐な言い方ではあるが)現代の誤った人間たちをも再生させる、強さや優しさ。 そんなに大袈裟に言わずとも、わたしは力をもらった、確かに。
急ぎ足に暮らすしかないこの国でも、自分のからだに流れるものなど気づく必要もないこの暮らしの中でも、その水のことを感じて暮らすことはできる。
一昨日は、竹内浩三とわたしを分けた40年という時間を考えて暮らした。 今日は、あの泉にわき出る水の時間を考えて暮らす。
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