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| 2003年03月05日(水) |
わたしの中の、複数の視座。 |
●なんだか、毎日仕事をしていることが落ち着かなくって。 その落ち着かない理由をきっちり書くとなると、とんでもない紙数を要しそうので、とっても書く気になれないのだけれど、でも、たとえば、簡単にその落ち着かなさを説明しようと試みれば。
誰しも、ある自分の視座を中心に生きていて。それは、自分を他人にどう見られたいという自意識とか、自分はどういう人間であるかという自負に依っていたりとか、自分は社会の中でこういう役割であるという認識とか、そういうあれこれに依って生まれ、それぞれの視座で社会を見、よって、自分をどう存在させるか選んでいるわけで。 その視座っていうのが、わたしははっきりしていないのだな。
いつも、他人の視座に自分を置き換えることが、自分の基本的な在り方になっている。それが、自分の表現の基礎であると言っても過言ではないくらい。
でもそうした中で、役割がはっきり決まった現在の仕事をしていると、もう、しょっちゅう、疑問が湧いてきて。
世の中には、あらゆる論理が存在する。ちょっとした詭弁術を身に付けていれば、どんな弱者、どんな強引な強者の存在も、正当化できるほどに。
それでも、その正当化できるあらゆる論理がないまぜになったりぶつかったりすることで、あらゆる世の中の「どうしようもないこと」が起こっている限り、やっぱりわたしは、たくさんの他人の視座の間をうろうろするほかはない。
「自分はこうだ」と言い切るふりをして生きている人もあれば、「自分はこうだ」と思うことのみで生きている人もいる。自分の論理以外に盲目になれることは、ある意味幸せであり、ある時は、それ自身を才能と呼ばれたりする。
でも、わたしは違うんだな。ふらふらふらふら、複数の視座をさまよって、ああでもないこうでもないと、喜んだり悲しんだりしているんだな。
●複数の人間が集まっているところ、いわゆる社会の中で、仕事をしていると、もう、考えることが日々あって、わたしはちょっと疲れ気味。休日に本を読んで、自分がより普遍的な考え方に戻っている時は、よけいに、そうなってしまう傾向があり。
●今夜も、酒を飲んで帰った。飲めば当然酔っており。それでも、こうして書いてからベッドに入るのは、習慣として、如何なものか。 敬愛する宇野千代が書くように、荷風が書くように、日記を綴ることとは、ほど遠い。自分を持て余して書くことにだって、深沢七郎のなした、「言わなければよかったのに」の日記という、大見本があるが、それはもっと遠い。 希望もなく絶望もなく、書く、ということを、それでも続けようと思うのは、たとえ視座の落ち着かない人間であっても、「ことば」によって思考し、「ことば」によって自分を測っているという基本だけは、落ち着いているということか?
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