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| 2003年04月03日(木) |
マグダラのマリア、二景。 |
●初日を開けると、わたしの仕事場は客席になる。トランシーバーをつけ、ヘッドセットをつけ、ストップウオッチなど持ったわたしは、如何にもスタッフなので、休憩は何分後だとか、終演は何時だとか、よく観客に話しかけられる。これは日本でも、いつもあること。でも、この国でしかないことは、休憩中に、「素晴らしいよ」とか「衣裳がいいね」とか、感想をダイレクトに個人的に話しかけられるということ。わたしは「ありがとう」とことばを返し、休憩後の1時間半も楽しんでもらえるようにと願うことになる。なんとも反応がストレートで、いい意味で個人的なのだ。自分が面白いと思うから、面白いと伝えたい気持ちが、そこに見える。それはそれは素晴らしいコミュニケーション。
●夜1回公演なので、昼間はなんの計画もなくお散歩に。 ナショナルギャラリーの特別展示で、TITIANという垂れ幕がたくさん。それって誰?とポスターの絵をのぞくと、それはティチィアーノ。もう迷わず入ってみる。昨年、エルミタージュを駆け足で見てまわった時、ティチィアーノの「マグダラのマリア」を見て、大感動をした覚えがある。あの涙。あの、実人生を越えた虚構の涙の美しさ。いや、我々の知り得ぬかつての深々とした人生が生み出した虚構の涙の表現。またあの絵に出会えるのかしら?と期待しつつ。 展示作品の中に「マグダラのマリア」はなかったものの、また幾つかの出会いをし、外に出る。ふと、カラッヴァッジオの「マグダラのマリア」を思いだし、本屋へ向かう。 本屋へ向かう途中にあった、セントジェームス教会。教会を見つけると必ず中へ入る習性のあるわたしは、しばらく聖堂にたたずむ。あっけらかんとした礼拝堂。十字架の前にひれ伏して祈る男性が一人。そんなのおかまいなしに、ブオンブオンと掃除機をかける女性が二人。ただそれだけの教会。 本屋で、ティチィアーノとカラッヴァッジオの本を買い求める。カラッヴァッジオの「マグダラノマリア」は、世俗の痛みに満ちたもの。ティチィアーノのそれとはまた違った訴求力がある。わたしはそれらの画集を胸に抱くようにして、劇場入りする。
●ロンドンに来てから、辛いことがいろいろあった。肉体の疲弊は単純に眠りの時間が癒してくれるけれど、なかなか自分ひとりでは癒しきれない精神の疲弊が、わたしにはあった。 それを、救ってくれるものが、やっぱりあるのだ。
やはり懸命に自分の生を生きている仲間たちであり、深々とした人生を送ったかつての人たちの作品であり……。
●二人の画家の、2種類の「マグダラのマリア」は、今日のわたしの、救い、だった。こういうことは、誰に伝えても分からないこと。わたしは一人で、その絵を思い浮かべ、柔らかな力を取り戻しつつ、夜の時を過ごす。
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