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●「向田邦子の恋文」というドラマをテレビで見た。久世光彦演出の、TBS新春恒例の枠。 向田さんの死後、ずいぶん経ってから、遺品の中に、彼女の、恋人に宛てた手紙と、恋人の手紙と日記が見つかった。
脳溢血で仕事ができなくなったカメラマン。家族と別居して暮らす彼を足繁く訪ねる向田さん。わずかでも一緒に過ごし、食事を作り、共にし、話をする。放送作家としてひっぱりだこだった向田さんは、寸暇を惜しんで彼を訪ね、愛する。家族のドラマを得意とした彼女が築いた、特異な形のもうひとつの家族の姿。 「忙しいから、訪ねてくるのは大変だろう?」と云う彼に、 彼女は「ここに来ることができなきゃ、台詞のひとつも書けない」と答えている。 彼らの関係は、彼のガス自殺によって、一方的に終わった。
わたしはこの原作を、新潟で読んでいる。 昨年の7月、忙しく過ごす恋人と、わずかな時間でも二人で過ごしたく、新潟まで追いかけて行った時のこと。その日の日記にこう書いている。
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「向田邦子の恋文」という本を読んだ。向田さんの死後見つかった、不倫相手との手紙やら日記を公開したもの。人ひとりの人生での秘め事は、フィクションと同一線上に並ぶものではない。何故こんなものが出版されたのだろう、と、読後もやもやしたものが残った。
向田さんの著作は全部読んでいる。20代、偏愛していた。亡くなってからも、書棚から時折ひっぱり出す。この人が切り取る生活は、痛ましく美しく、当たり前でいながら、いつも不思議な日常の異界だった。作品だけで十分だった。いいじゃないか。……そんなもの出版しなくったって。
書簡という文学形態を意識したものでもなんでもなく、ただただ愛情を綴った日常的な手紙は、読んだことを忘れたいくらいの、純粋さだった。大人になってからの純粋さは、あらゆる世間体や自己愛、見栄や計算の、その下にある。大人なら誰でも持つ、それらの逡巡の下にある。だから、見え隠れする愛情は、純粋なほど痛ましいのだ。みっともなくも美しく、その美しさは 他者に知られる必然を一切排している。
……読まなければよかった。本を読んでそんな風に思うことなんて、めったにない。……だから出版する意味があったというのか?
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と、その出版を解せずにいて。
気になって見てしまったドラマだが、向田さんを演じた山口智子が、魅力的だが適度に乾いているので、逆に安心して見ることができた。相手役の男性は、知らない俳優だったが、人間を演じておれず、痛みが伝わらない。何も伝わらないことと、淡々と演じることとは違う。 それより、演出だ。 久世光彦氏ほど向田さんを知っている演出家はいないのだろうが、老いた演出家の限界を、ちょっと感じたり。 原作にあった、個人の裡に秘められた生(なま)の生(せい)の痛みは、 影も形もなく。それが、テレビドラマに置き換えるための方策だとしたら、狙いだとしたら、もう遅れてるんじゃないかしら? 少なくとも、ゴールデンの連続枠ではないのだから。
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見ている間、やはり恋人のことを考え続けていた。 向田さんの作品を思い出し、一人の女性の短い人生に起こりうる、色んなことを考えていた。
人生、一回しかないから、できれば上手に生きていきたいのに、なかなか難しい。
●早く仕事に出たい。家で一人だらだらやる仕事に、早くも飽きてしまった。現場で、人の中で、人にもまれて早く働きたい。

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