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2004年03月21日(日) |
塩一トン舐めるまで。 |
●今日から、須賀敦子さんのエッセイを読み始めた。 「塩一トンの読書」という一冊。
冒頭部分を引用。
……「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」 ミラノで結婚してまもないころ、これといった深い考えもなく夫と知人のうわさをしていた私にむかって、姑がいきなりこんなことを言った。とっさに喩えの意味がわからなくてきょとんとした私に、姑は、自分も若いころ姑から聞いたのだと言って、こう説明してくれた。 一トンの塩をいっしょに舐めるっていうのはね、うれしいことや、かなしいことを、いろいろいっしょに経験するという意味なのよ。塩なんてたくさん使うものではないから、一トンというのはたいへんな量でしょう。それを舐めつくすには、長い長い時間がかかる。まあいってみれば、気が遠くなるほど長いことつきあっても、人間はなかなか理解しつくせないものだって、そんなことをいうのではないかしら。」
●これに続け、須賀さんは穏やかな筆致で、急ぎすぎない「本とのつきあい方」を述べていくのだが、わたしはこの喩え話の直接的な意味合いに、感じいってしまった。
……わたしが今、毎日劇場で顔を合わせている人たちのこと。
出会っては別れを繰り返すこの仕事をしていると、どうしてもどうしても出会い方がせっかちになっている自分がいる。 人と人との、面倒な問題が後から後から噴出する今、わたしはもっとじっくり人と出会うべきなのではないか、と。
読み進めるにつれ、この喩え話と、須賀さんの文章から垣間見える彼女の時間の流れ方が、わたしに、「あせってはだめ、あきらめてはだめ」と、呼びかけてくるのだ。
●見慣れた芝居が少し違って見えてきて、いくつかまだまだ手を加えるべき点を現実的に見いだした。
個人的に、仕切り直しが始まる。状況と他者が変わらないのを嘆く前に、少しでもわたしが変わってみよう。

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