2004年09月27日(月) |
夕方から降り出した雨は、真夜中を過ぎた今もまだ止まない。街灯の明かりの下、細かな線を描いて降り落ちる雨。通りを行き来する車の音も今は途切れ途切れ。だから車の音が途切れたその瞬間、夜は全くの沈黙に陥る。街灯と街路樹と雨筋。耳を澄ましていると、何処かから秋の虫たちの声が、微かに渡って来る。でもやはり私の目の前に広がるのは、沈黙なのだ。無造作にそれらが散在する目の前のいつもの光景。ただそこに在るというだけで一枚の絵になってしまう必要十分な景色。それがたとえどんなに当たり前な何処にでもありそうな姿をしていたとしても。 先日真夜中に目が覚めて起き上がり、いつもするようにお茶を飲もうと足を進めていたはずの自分だったが、気づいた時には畳の上にころんと転がっていた。短いながら記憶が飛んでいる。一体私は何故ここに転がっているのだろう。そう思って立ち上がろうとしたとたん、私の体は再び思いきり揺らぎ、もう一度転んだ。痛い。そう思って足に手を伸ばすと、足は見事に捻挫しており。あまりの痛さに私は慌てて薬箱に手を伸ばす。湿布を貼り、テーピングをきつめに施し、薬箱をしまい終えて、私はため息をつく。 離人感が大きく作用するときというのは、私は頻繁に怪我をする。覚えがないのに大きな痣が体のあちこちにできていたり、今回のように捻挫していたり、普段すりむくはずのない箇所に思いきり擦り傷を作っていたり。でもまぁ、このくらいの怪我ならどうってことはないのだ。命を失うほどのことではないし、とりあえず迷惑をこうむるのは自分自身だけである。 もちろん、困ることは幾つもある。たとえば、誰かから電話が来て、相手によると私は電話でそれなりの話をしておりながら、私は全くそのことを覚えていず。どうもいつもと様子が変だと思ったその人が数時間後に再び電話をかけなおしてくれたときには、電話なんて受け取ってないと頑として主張する私がいたり。何処かに出掛けようと思って部屋の外に出たのだろうが、そのことの記憶がなく、ふと気づくと駅のホームにいる自分に途方に暮れてみたり。 でも、そんなこと、たいしたことじゃぁない。仕事の電話の記憶がないということで何度か恥ずかしい思いをしたが、それもたいしたことじゃぁない。じゃぁ何が困るのかといえば。一番恐いのは、火だ。 たとえば薬缶にいっぱい水を入れてお茶を煮出そうとする。ガスレンジに薬缶をかけ、ガスをひねる。その後意識が途切れ、意識が再び私と繋がったときには二リットル分の水を入れていたはずの薬缶がすっかり空になり薬缶の底は当然黒焦げ、あと少しで爆発しかねない事態になっていたり。スープを温めなおして食べようと思っていたのだろうが、そう思ったことを私が記憶していず、ふらりと部屋の外に出てしまい、意識が自分とようやく繋がって帰って来た頃には、自分ではかけた覚えのない鍋がガスレンジの上で今にも燃えあがりそうな勢いで音を立てていたり。 そのたびに、私は心臓が止まる思いを味わう。そして主治医からの言葉を思い出す。「いい? 今週は、無事でいることだけ気にしてくれればいいから。ね? 踏ん張って。来週も無事な姿で会いましょうね」。だから、主治医とも話して、この頃では、ちょっと調子がおかしいなと思うときには、ガスを元栓から止めてしまうことにした。もちろん、私が私と繋がっていなくて意識が飛んでしまっている最中に、意識を失った手がガスの元栓をひねってしまうことがあり得るかもしれない。でも、何もしないよりはましだろう。そう思って、調子の悪いときはさっさと私はガスの元栓を締める。 そんな自分に、私はちょっと苦笑せずにはいられない。何故って、数年前まであれほど自分を消去したいと思い、そのためにならどんな努力も惜しまなかった私が、今はどうだ、自分の身を何とかして守ることをこんなに必死に考えている。自分の身を守れなきゃ、自分の家族も守れない。私は今、こんなところで死にたくない。かたく、そう思っている。
この頃毎晩、眠る前に彼女が言う。「ママ、話しがあるの。お耳貸して」。だから私は耳を傾ける。すると、今夜も彼女は同じことを繰り返す。 「ママ、あのね、わたしが大きくなって子供産んだら、ママはおばあちゃんになっちゃうんでしょ、私ね、ママにおばあちゃんになってほしくないの。ママはママがいいの」 「うーん、あのね、ママはね、ずっとあなたのママなの。あなたが赤ちゃんを産んだら、あなたの赤ちゃんにとってママはおばあちゃんになるけど、そうなってもママはあなたのママなの、だから大丈夫だよ」 「ううん、違うの、私はママにおばあちゃんになって欲しくないの。ずっとママでいてほしいの」 「うん、だから、ママはずっとママだよ」 「あのね、私ね、いやなの。ママがおばあちゃんになっちゃうのはいやなの」 そう言って、彼女はべそをかき、じきにえぇんと泣き出す。 「それでね、だからね、私が大きくなったらママと結婚するの」 「うん、分かった。じゃぁママと結婚しよう! ママ、嬉しいなぁ!」 「そしたらママはずっとおばあちゃんにならなくてすむでしょ?」 「いや、えぇっとあの、どういうんだろうなぁ、それは」 「わたし、ママがおばあちゃんになっちゃったらもう生きていけない」 「いやぁ、ははは」 「死んじゃう」 「いや、死んじゃったらママが困るでしょ。死ぬのはだめなのよ」 「なんで?」 「ママもあなたも、命を授かってこの世に生まれてきたんだから、死ぬことが訪れるその日まで、必死に生きなきゃだめなの」 「でも、私、ママがおばあちゃんになっちゃうなら死んじゃう。かなしくて死んじゃう」 「大丈夫、ママはママだから。ずっとママはママだから。だからね、死ぬなんてだめなのよ」 「…」 「…」 「ママ、好き」 「ママも好き、大好き」
死ぬなんてだめなのよ。こんなことを私が言うとは。自分を消去することしか考えられなかった自分が、今は、死んじゃうよと嘆く娘に死んじゃだめなのよ、なんてえらそうに繰り返す。それがおかしくて、娘が眠りに入ってから、私は一人、苦笑する。 そう。死ぬなんてだめだ。確かに死にたくなることは、これからだって山とあるだろう。でも、死ぬなんてだめだ。それはずるい。 生きること。生き切ること。それは、簡単なようでいて、実はとても難しいことだったりする。けど、難しいならなおさらに、死にダイブしちゃだめだ。とことんまで生きて生きて生きて、生き抜くのが、私の、いや、命ある者の為すべきこと。 小さな寝息をたてる娘の隣から体を起こし、私は今夜も窓を開ける。まだ雨はやんでいない。このまま朝まで降り続けるのだろうか。それとも明日も一日中雨なのだろうか。 窓の向こうに広がっているのは、いつもの風景。何の変哲もない、何処にでもあるのだろう街景。けれど、そうした風景の中で、私は生きている。今日も、明日も。この風景があの時のように一気に色を失い、それどころか地平線がぐるりとひっくり返ってしまうことが再び私に訪れることがあったとしても。この景色を信じよう。この世界の有様を思い出そう。ここに私の日常があるということを。世界のはじっこで、私は今日も生きているということを。 |
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