Opportunity knocks
DiaryINDEX|past|will
いつものミニシアターで「エレファント」観る。
ひとつの時間の流れがあり、その中をいろんな人が行き来する。いろんな行動がありいろんな感情がある。映画は7,8人の生徒の視点を交互に見せながら、事件の直前まで進んでいく。デイトの約束をするのに一生懸命になっている男子生徒、コンプレックスを抱えている女生徒、気になる男の子の話や噂話に興じる女の子たち、親のアルコールの問題を憂いている男の子。
いろんな生徒達の一面を見ることで、それぞれの死の重みみたいなものを強く感じた。頭で事実として認識するのではなくて、かなり直接的に感覚的に。
あのふたりは何を考えて生きていたんだろうか。 「ボウリング・フォー・コロンバイン」のときも犯人である二人の少年の事件の動機、背景みたいなものはあまりよくわからなかったけれど、この映画をみてもはっきりとはわからなかった。 でも、あのふたりの視点でみることによっていろんなことを考えた。 人を殺したいという衝動、銃を撃ってみたい、大きな権力を目の前に掲げてすべての人間を平伏させたい、日々感じている抑圧、やり場のない感情のはけぐちがほしい、何かから解放されたい、などなど。 映画を観ていたらそんな二人の目に見えない感情が、するするとしみ透っていく気がした。
でも、そんなふうに感じることはべつにわるくないと個人的におもう。犯人側の立場で撮りすぎだという批判があるらしいけど、そういう事件を起こした人間の心理を考える(共感するというのではなくて)というのはとても有効なことなんじゃないかな。逆にそういう心理がわからない人間の方が実は危険かもしれないとおもう。
前半の気だるく流れていく日常の描写が、事件の非現実性を強烈に感じさせているところが強く印象に残った。
2004年04月27日(火) |
「小人の夢」についてすこし |
このまえ日記に書いた小人の夢は、実は連れ合いが長い間みていた夢をもとに書いたものです。連れ合いは子供の頃からその夢を見続けていたそうで、出会ったばかりの頃よくその夢のことを聴かされました。 でも結婚して数年たち、徐々にその夢を見る回数は減っていき、今ではまったく見ないようになったとのこと。
日記に書いた小人の夢は、雰囲気的に暗い方向へと傾きつつ終わるのですが、実際はなんとかその存在を克服できた、ということで現在は普通の夢を見、普通の日々を送っている連れ合いなのでした。
2004年04月23日(金) |
ぼやーっとしてるけど |
コドモの授業参観日。 道徳の授業。思うのだけどどうして道徳の教科書の中の話ってあんなに面白くないんだろう。確かに他者理解というのが道徳の授業の目的なわけだから誰もがわかる話っていうのは大切なんだろうけど、それにしても単純すぎると思うんだ。もっと中学生っていろんなこと考えてるのにって思う。
授業の合間に壁に貼ってある掲示物を見てまわる。 ひとりひとりのプロフィールみたいなものがあって、今自分が熱中していること好きなこと、今年がんばろうとおもっていることなどが書かれてある。 その中で自分を漢字にたとえてみようというのもあって、コドモはなんて書いたんだろうとみてみたら、「木」という字が書かれてあった。
なんで「木」なんだろうと思って、帰り道コドモに訊いたら、ひとこと。 いつもぼやーっとしてるから。だって。 思わず笑ってしまった。もっとほかに言い様があるだろうに。 でもなんとなくコドモらしいといえばコドモらしいかも、とおもった。
たしかにぼやーっとしてるけど、でも木ってほかにいいところがいっぱいあるんだよって自分でそのことに少しずつ気付いていってほしいな、と思う。
たけのこを茹でながら本を読んだりPC開いてたりしていたら、鍋が吹きこぼれてガスレンジが糠だらけになってしまった。
おいしいもの作るってたいへんだなあ・・ ってそういうことじゃないよね、たぶん。
2004年04月19日(月) |
小人の夢(いちおう創作です・・・) |
小人の夢をよく見る。 小人といっても童話などにでてくるようなのどかな小人ではなく、思いっきり意地が悪くて思いっきり醜い小人だ。 体の大きさは10センチ程度、鼻と耳が大きい。はれぼったくて小さい目をしている。 長くて小枝のように細い指はつねに落ちつきなく小刻みに震えている。 夢の中でわたしは仕事に追われている。 顧客に提示するための資料を明日の朝までに作らないといけないとか、そういうときだ。そういう時にやつらはやってくる。 はじめ一匹かニ匹が視界に入り出す。 わたしに存在を知らしめるかのように、ちらっと現れては消える。 僅かに口元に笑みが浮かんでいる。楽しんでいるのだ。 わたしはだんだん苛つきはじめる。そして同時に狂おしいほどの不安が襲ってくる。 そういうわたしの精神状態を見透かしたようにやつらはいっせいにあらわれる。 はじめは数匹、そして数十匹、さらに数え切れないくらいたくさん。 小人は思いつく限りの悪逆をやりつくす。 仕事のために作った資料を引き裂く、コンピューターに花瓶の水をぶちまける、 大切にしているレコードやCDなどを真っ二つに割ってそれをいっせいに投げつける、お気に入りの服で鼻をかんだり唾を吐いたりする、ほんとうに数え切れない。 わたしは、小人に向かって悪態をついたり悪さをしているやつを捕まえて窓から放り投げたりしているのだけど、小人の数が多すぎてどうにもできない。 途方にくれてわたしはたちつくしてしまう。すると小人はわたしのそばに近寄って、わたしが能無しであるとか、おまえにはなんの将来もないだとか、なにをやろうが無駄なんだよ、だとかそういうことを口々に言い始める。最初は囁き程度だったものがだんだん耳を覆うほどの大きな声になってわたしを襲う。 わたしはどうにもならなくなって泣き始める。 5歳くらいの子供の様に、無力で非力な存在となって泣き続ける。 たいていそこで目が覚める。 汗と涙でシーツと枕はぐっしょり濡れている。 小さい時から夢の中に小人はでてきた。程度の差こそあれ、小人は毎回わたしの行く手を阻む。そしてわたしは戦おうとするのだが、最後には小人が必ず勝つ。小人は笑う。そしておまえは一生そうやって生きていくんだとばかりに嘲り続ける。 でも、そんな夢を見るのは今日で終わりだ。 なぜそんな夢を見るのか、小人はどこからやってくるのか、 わたしはずっと考えてきた。そしてようやくわかったのだ。 わたしはそれを今から殺しにいく。 息の根をとめる。 わたしはもう夢に、小人に悩まされる事はない。 やすらかな夢を見ながら眠るのだ。 わたしはそう決めたのだ。 誰にも邪魔できない。
忘れること。人間の脳には適度な忘却機能があるらしい。 記憶は時間が経つにつれ退色し形の輪郭を徐々に失っていく。 思い出すの辛い記憶から、とても楽しかった記憶まで、たぶん全部。 忘れるのが良いのか、悪いのか。 ただ、形はなくなって空気みたいなものになっても、記憶自体がなくなることはないような気がする。 たぶん、そういうものが時として訳もなく人を悲しい気持ちにさせたり嬉しい気持ちにさせたりするんじゃないかと。そんなことを考えた一日。
車を運転しているとき、料理をしているとき、歩いているとき、そんなときにわたしはよく考えごとをしてしまう。考えごとといっても建設的なことを考えているのではなくて、ただどうでもいいことをメビウスの帯のごとく考えているわけで、老後に向けての計画だとかマイホーム獲得のための預貯金の運用だとかそういう具体的なことを考えているわけではない。
で、今日買い物にいった帰り道でぼんやり考えていたこと。 人生ははたして平等なんだろうか不平等なんだろうか。 生まれながらにして身障者の人もいれば五体満足の人もいる。容姿の良い人悪い人、優れた体、頭脳を持っている人もいれば平凡な人もしくは劣っている人もいる。恵まれた家庭環境の人もいれば不幸としか考え様のない家庭で育つ人もいる。そう言う意味で考えると、人生というのは生まれながらに格差があり不平等なものなのかもしれない。でもふと考えたのだけど、そういう格差は厳然としてあるのだけど、それでも自らが幸福を感じたりすることはあくまで自分の基準で決められることであって、なんびともそれを否定することはできない。誰が何と思おうと自分が幸福だと思えばその人は幸福である。ということはたとえ何らかの格差(またはハンデ)があったとしても人生において何かを(たとえば幸福、たとえば不幸)得るという点で考えると人生は平等なのかもしれない。
・・・・でもなあ。幸福でもないのにわたしは幸福だ、なんて思いこむわけにもいかないし、やすやすと幸福を手に入れる人もいれば、人の何倍も努力してやっと幸福が手に入る人だっているんだよなきっと。それって不平等だよなあ。でもなあ・・・。 なんて考えているうちに家に到着。ついさっきまで考えていたことは頭の隅にさっさと追いやられて現実的なことがつぎつぎと頭の中を支配。
人生が平等か不平等かはよくわからないのだけど、少なくとも誰かから幸福を与えられるのを待つのではなくて、自分から幸福を感じ取れる人間でありたいと思う。
このまえ財布をなくしたことを日記に書いたのだけど、そしてなんらかの奇蹟がおきて財布が無傷でもどってくることをひそかにかなり期待していたのだけど、そんな奇蹟がそうそう起こるわけもなく結局財布はもどってこなかった。たぶんこれからもその可能性はきわめて低いと思う。つまりはもういいかげんあきらめたってことなのだけど。
それ以来昔コドモが使っていた黒のがまぐちを使っていたのだけど、連れ合いはそれが気に入らなかったらしい。いい年した大人の女が人前でがまぐちだなんて、なんともみじめでなさけないのだそう。 わたしはかなり平気で使っていてこれからも新しい財布を買うまでそのがまぐちを使うつもりだったのだけど、連れ合いがなんと財布を買ってプレゼントしてくれた。滅多にプレゼントなんてものを買ってこない人なので、よっぽどがま口を使っていたわたしを不憫におもったのだろう。わたしはべつにそうはおもってなかったのだけど。
とにかくプレゼントはプレゼントなのでありがたく使わせてもらうことにする。 今度はなくさないようにしなきゃ、とかたく心に誓いながら。
|