Opportunity knocks
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とても良い天気の日曜日。 洗濯物をとりこんでいたら、コドモのシャツにてんとうむしがとまっていた。 そういえば昔、てんとうむしの柄のシャツがお気に入りだった。 薄いピンクのシャツにてんとうむしの刺繍が縫ってあったっけ。 そんなことをおもいだした。
2004年05月24日(月) |
このまえみた映画の感想 |
「中国女」 結局1時間弱(ちょっとがんばってみた)で再挫折。彼らが共産主義、マルクス主義に深く傾倒しているというのはなんとなくわかった。ソ連ではなく、中国なのだということも何となくわかった。でもそれ以上の理解または感動はなし。何が残るといえば、何も残らなかったというのがかなしくも正直な感想。ちなみに連れ合いはこの映画のことを非生産的なようで実は生産的な映画といっていた。考える、表現するという行為をもっと掘り下げてみるとまた違う観方ができるのかもしれない。もすこしわたし自身の知識が増えて、感じ取る力が上がれば違う感想を持てるのかも。そのときになったらまた観ようと思う。
「8人の女たち」 この前書いたように舞台的で、多少誇張したような演技が面白かった。タイトル通り8人の女たちをじっくり見て楽しんでほしい映画。ラストはちょっとびっくりした。そうきたか!とおもった。
「スコルピオンの恋まじない」 面白かった。絶妙な軽さがイイ。軽さというのはこの場合軽薄とか内容が薄いとかいう意味ではなくて、なんていうのかな、心に負担がかからない軽さというか観ていて楽になれる軽さというか。それでいてちゃんと何かが残る。 くすり、またはふふふと笑えるそんなウディ・アレンの映画がだいすき。
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ミ〇ドのドーナツ全品105円、というのはやばい。 買わないとソンした気分にさせられるので思わず買ってしまう。 、というわけで少々胃もたれ気味。 なんで買っちゃうのかなぁなんでたべちゃうのかなぁなんでたべることがこんなに喜びなのかなあ、と自らに問う。 でも問うた所でたべないはずもなく。 週後半はそのぶん運動してカロリ消費する予定。がんばろ。
現在2時過ぎ。 明日は朝からでかけるところがあるというのに眠れない。 冷蔵庫をあけると栓をぬいたワイン(白)があったので、 戸棚にあったクラッカー(しけってた)と一緒に飲む。
ワイン飲みながらクラッカー齧りながらぼんやりかんがえごと。
おなかがほんわりあたたかくなって、体が水をふくんだ綿花みたいになる。 眠れるかな? 、というかあしたちゃんと起きられるんだろうか?
「ボディ・アーティスト」読み始め。 まだ数十ページしか読んでないけど思ったより入りこめる。 冒頭のふたりの会話とか。 普段気に止めないけれど確実に存在している世界がぎゅっと濃縮されてる感じ。 (半ばなにいってるかわかってません) じっくり読んでみようと思う。
一日中雨音がきこえてくる、そんな日曜日。 連れ合いは遠足の下見とかで岐阜県へ行き、 コドモはひとりで電車に乗ってでかけてしまった。 (映画を観て、ランチして、その後参考書を買うのだそう)
どこにも出かける気になれず、お茶を飲みながらひとりでぼんやり映画を観ていた。 「中国女」「スコルピオンの恋まじない」「8人の女たち」 「中国女」は5分で挫折。わたしの頭が悪いせいかそれとも性格がゴダール向きじゃないのか。たぶん両方。 「8人の女たち」は途中まで観たけど結構面白い。広い邸宅で男主人が誰かに殺害されて、8人の女たちの誰かが犯人で、という設定なのだけど、舞台的というか、一人一人のキャラクターの個性が突出してて観ててあきない。8人がそれぞれカラーを持っていて、身につけている服もそれぞれの色が象徴的に使われている。ピンクに緑、青にグレー、黒、赤、茶、白。演じている女たちは、エマニュエル・ベアールにカトリーヌ・ドヌーブ、イザベル・ユペールなどなど、目にも美しい女性たちばかり。 ストーリーはというと、誰が犯人なのか、いろんな事実が後から後からでてきて謎は深まるばかりで、半ば混沌と化しつつあり。ラストはゆっくり観ることにする。 スコルピオン・・はウディ・アレンの新作。見逃してしまったので、これもゆっくり観ることにする。
夕方、帰ってきた男たちの話に長々とつきあわされる。 映画はこうでね、ああでね、面白かったけどちょっとストーリーが単純かな・・・ もう雨がひどくてさ、なんでこういうときにばっかり雨が降るのかなあ、もう・・・
昼間のひんやり冷たい静けさはどこへやら。 そんな感じの日曜日。
村上龍氏の講演会にいく。 インタビュアーをはさんで対談形式の講演会だったのだけど、インタビュアーがあまりにも月並みなことしか言わないので最初のうちはまったく面白い話がきけなかった。そつなくこなそうというのが露骨にわかるというか、こっちは村上氏のコメントなり考えをもっとつっこんで聞いて欲しいのに、なんだかひとりで無難な結論でまとめてひとりで納得している感じ。 良いインタビュアーというのはただ話をウンウン聴いて相槌をうつのではなくて、それなりの才能みたいなものがないとだめなんだなあということを実感した。例えば話す人の話を受け入れる、消化する、そして疑問を持つ、訊く、そういうことを違和感なくできる人が良いインタビュアーなのかもしれない。 講演会の内容で頭に残ったのは、村上氏が挫折というものがよくわからない、といったこと。自分のやりたいことの本質がわかっていればいつまでもやりつづけることはできるんじゃないか、例えば編集者になるために某有名出版社に就職したいけれど、就職試験ではねられてしまった、で、それが挫折かというとそれは違う、編集の仕事をするのが編集者であって、出版社に入るのがすべてではない、どの出版社でも編集の仕事はできる、ということをひきあいにだして話していた。 ようするに先をみすぎだということ、今この瞬間に自分が何がしたいか何をすべきかということを第一に考えるべきだということがいいたかったんじゃないかな。 自分があきないことをやり続けることが大切なんだということ。インタビュアーはそれもビジネスにつながっていかなければ何もならないんじゃないか、と現実的なことをいっていたけど、村上氏の言いたいことはよくわかる気がした。彼はきっとそんなふうに生きてきて、結果的に今の自分になることができたんだろうな、と。
対談形式に話が進んでいったあと、会場のひとたちとの質疑応答という時間があって、いろんな人が村上氏にインタビューしていたのだけど、そちらの方が前半の話より数倍面白かった。 恋人とうまくいく秘訣を教えて欲しいという他愛の無い質問から、村上氏の研究を専門にしている大学院生(この人は握手を求めて壇上まで上がってきた)の話(デビューから今までの作品の変化についての質問)などなど、会場に聴きに来ている人達(たぶん半分以上が村上龍氏の熱烈なファンだとおもう)の方がよっぽどインタビュアーとしてふさわしいような気がした。
最後に質問した人は小学校の教師をしている人で、村上氏の著書「13歳のハローワーク」に関連して、何にも希望を持っていない無気力な小学生に対して自分はいったい何をしたらいいのか、社会的なサポートとしては何が考えられるだろうかという質問をしていた。話す様子からこの人はいろんなことを真剣に考えている結果、大きな壁に直面しているような感じを受けたのだけど、それに対してさすがに村上氏は難しい問題ですね、と言葉を濁していた。 たしかに意欲、やる気、希望を持っている人間に対してそれをサポートすることは、考えてみるとそんなに難しいことじゃない。そうじゃない人間に対して何ができるかということのほうが実は難しく、そして重要な社会的問題なんだと思う。
村上氏に対してはあまり格別な関心は持っていなかったけど、やっぱり実際に本人を前に話をきくということはそれなりに意義のあることなんだなあと思った。あらたな面とかもみえてきたので、時間があれば初期の作品(限りなく〜、コインロッカー〜)以外のものも読んでみようかなとおもう。
アンソニー・ミンゲラ監督の「コールド・マウンテン」 「イングリッシュ・ペイシェント」を上回るものではなかったけどかなり良かった。この人の撮る恋愛もの(というと軽く聞えるけど)はかなり完成度が高いと思う。人物の背景とか、心理とかをとても細やかに撮るからかもしれない。もともと脚本家だったということでそこらへんも一因かも。 「コールド・マウンテン」に関していうと、もう少し兵士の心情を感じさせる場面があっても良かったんじゃないかなと思う。それに脱走兵である主役の人(ジュード・ロウが演じてるのだけど名前は忘れた)の心情ももう少し表現してほしかった。ニコール・キッドマンは可もなく不可もなく。良かったのはやっぱりレニー・ゼルウィガーかな。 イングリッシュ・ペイシェントでもそうだったけど、主役の話に対して脇役の話を平行的に持って来て対比させながら同時進行していくという形がとられていて、今日観た映画は何というか脇役の方が主役を食ってしまった感があって、それで中途半端な印象になってしまったのかもしれない。 でもまあ良い映画でした。観にいってよかった。
水曜日の10時から日本テレビで放映されている自閉症児をとりあげた番組をこのところずっと見ているのだけど、自閉症児を演じている子役の子を見ながら自閉症という障害を持つことはどういうことなのかということを考えてみた。
まず言葉でのコミュニケーションができないということ。 言葉が話せないというのは、機能的に言葉を口にできないということとは少し違う。言葉を頭の中に形作っていながら口にだせないのと、言葉自体を頭の中で形作れないととは大きく違うから。 うれしい、またはかなしい、という言葉を知っていてだせないのと、うれしい、かなしいという言葉自体をまたは感情自体を認知できないというのは本当に違いがあると思う。普通の人はうれしいとか悲しいとか不快だとか怒りみたいなものを自分の中で認知できるけれど、自閉症の人にはそれが認知できない。自分の中に入ってくる情報に偏りがあるから(全部を認知できないから)自分が今どういう状況におかれているのかがわからない。その結果不安に陥ってパニック状態になりひどいときには自傷行為をしたりする。 でも考えてみると、自分がそんな状態になったらどう思うだろうか。目が見えず耳も聞えず口も聞えず感覚もわからず、広い海の真っ只中に小船に乗せられてただよっている状態を想像すればなんとなくわかるかもしれない。自分がそんな状態だとしたらわたしたちが送っている普通の生活などできるはずがないし、それどころか大きな抱えきれないほどのストレスを持った生活を強いられることになるだろうと思う。
番組の中で、自閉症の子がひとつのパズルに固執する場面があったのだけど、見ていてなんとなく、その子がなぜそれにこだわるのかが分かる気がした。たぶんその子にとってそのパズルは、真っ暗闇の中に見える灯台の明かりのようなものなんだろうと思う。何もかも分からない中で唯一見えるもの。唯一自分が把握できるもの唯一自分が理解できるもの。もしわたしだったらそれにすがりつくだろうとおもう。それを大事に大事にするだろうと思う。そんな気持ちが少しだけ分かる気がした。 どれくらいの人があの番組をみているかわからないけれど、多くの人がみてくれたらいいと思う。そしてそういう生き方しかできない人達がいることを少しでもわかってくれたらと思う。
2004年05月10日(月) |
手の届かないもどかしさ |
市美術館へ「ゴッホ、ミレーとバルビゾンの画家たち」をみにいく。 バルビゾンというのはパリ近郊の農村。ミレーやクールベ、コロー、ルソーなどの自然主義の画家がこの村を中心に絵を描いたので、これらの画家はバルビゾン派と呼ばれている。モチーフは農村であり、そこに住む農民の生活、そしてそれに対する深い愛情と敬意などで、そういうものがどの絵にも感じられた。
ゴッホは絵を描きはじめたときからミレーを深く敬愛していて、ミレーの版画をいくつも模写していたらしい。模写といっても寸たがわず丸写しするわけではなくて、構図はほぼ同じだけど自分の色彩、自分の画風で描いている。そんな絵が展覧会の中にも何点かあって、ミレーが描いた版画や油彩と比較してゴッホの模写が並べて展示してあった。それをみていると、ゴッホがミレーの絵を真似て描くことで何を得ようとしていたのかがよくわかる気がした。 ゴッホは農民の生活、自然を描くことに対してミレーのような情熱を持っていたわけではないけど、でもそのような情熱を何かに対して持ちたいと強く思っていて、それでミレーの絵を描くことによってそれが見つかればと思っていたんじゃないのかな。ゴッホはそのうち大きな街にでてその何かを見つけようとするわけだけど、結局自分ではそれがわからないまま、さがそうともがき続けたまま人生を終えたんじゃないかと思う。そういうもどかしさ、手の届かないものに対して懸命に手を伸ばしている、そんな気持ちがゴッホの絵をみているとひしひしと感じられる。
ミレーはその点、自分の求めるものが明確にわかっていて、しかもそれを表現するすべをちゃんと持っていた気がする。なので、ミレーの絵をみるととても落ちついた静かな着持ちになれるのだと思う。
ただ見せる、というだけではなくて、今回の展覧会のようにふたりのまったく違う画家を対比させるという意図を持った展覧会が最近開催されるようになって、観る方もいろんな見方ができる気がする。これからはこんな感じの展覧会が増えていくんだろうなあとおもう。 見ごたえのある展覧会だった。
雨降りの1日。 で、何をしていたかというとひたすら寝ていた。 朝コドモに御飯をたべさせて部活に送りだした後もお昼近くまで寝ていた。 お昼過ぎてからも眠気はいっこうに去らず、本を読みながらうたた寝。 なんでこんなに眠いんだろうというくらい眠たかった。 たぶん単純に体が眠りを欲していたんだろうと思う。 そういうとき、わたしはそういう自分の無意識下の欲求に対して比較的素直に従うようにしている。 無性に野菜がたべたくなったときはこころゆくまで野菜をたべ、体を動かしたいと思うときはそれなりに運動し、泣きたいと思ったときは素直に泣き、本が読みたいとおもったときはなにもかもうっちゃってそれに没頭する。 まあ、いろんなことがあるからすべてそのようにできるわけではないけど、基本的にはそうしている。 体が要求するものにはそれだけの理由があると思うし、ごく自然なことだと思っているから。 ってなんだか一日ぐーたらしていたことへの言い訳みたいだけども…。
でもそのおかげで夕方から頭の中がすっきりして、本読みも進んだしいろんなことの意欲もでてきた気がする。
結構良い休日でした。
誰かのことを好きになるとしたら、 その人はたぶん、 自分とはまったくタイプの違う人か もしくは自分とよく似ている人、 だとおもう。
自分とまったく違う? うーん・・・ おおらか。 素直。 頭脳明晰。 手先が器用。 だれとでも仲良くできる。 甘え上手。 話し上手。 二重瞼。 外向的な人
自分に似ている・・・ 孤独癖がある。 しかもさみしがり。 不器用(心身ともに) 不素直。 甘え下手。 話下手。 内向的な人。 一重瞼。
たぶん、今まですきになったひとの多くは前者。 自分に無いものを補おうとする本能が働いたのだろうか。
でも今は自分に似ているなと思う人のことが気になったりする。 むかしはそれがいやだったのだけど。
少しは自分のことを認められるようになってきたということ?
そういうことにしとこう。
2004年05月03日(月) |
連休、かいもの、雨上がりの空 |
連休だというのに天気はなんだかごきげんななめ。 連れ合いは朝から潮干祭でおでかけ。祭りに関係ないわたしとコドモは街へ買い物へ。 まず(もちろんコドモの要望で)某デパートで催されている「鉄道模型展」なるものを見にいく。会場は老若男女入り乱れてかなりの混雑。熱心に見ているのは子供、少年、そしてちょっとマニアっぽい中年・老年の男子。そしてかたわらには少々お疲れ気味のお母さん(または老年男性の妻)らしき中年の女性たち。少なかったのは若い女性と少女。 鉄道模型見るより人間見るほうが面白かった。 名残惜しそうなコドモの手をひっぱって会場を後にし昼食。軽めのものがいいとのことで蕎麦屋に入ってにしん蕎麦をたべる。はじめていったお店だったけど結構おいしかった。
その後。某M屋、某T屋、本屋などをめぐり、ドトールでお茶などしつつお互い必要な買い物をすませた。 帰りの電車を待っていたら空がだいぶ明るくなっていた。 明日は晴れるといいけど。
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