Opportunity knocks
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リップを買った。ヌードベージュという色。 まっさらなのを最初につかう一瞬がすき。
あしたは友達Mと連れ合いの実家の近くに新しくできたカフェに行く予定。 ひそかに連れ合いの実家を本屋兼自宅として建て替えたいという野望を持っているので、 この新しくできたカフェは気になる存在。 どんなとこだろ。たのしみ。
お義母さんにアロエの蜂蜜漬けなるものをもらった。 毎日少しずつたべると体に良い、と言われてひとくちかじってみたのだけど、これが筆舌につくしがたいほど苦い。 苦くない品種のアロエ(ヨーグルトなんかに入ってるやつ)もあるみたいだけれど、お義母さんがくれたのはキダチアロエというやつで、普通にあたりまえに苦い。蜂蜜というオブラートで包んでも苦い。ちょっとたべられそうにない感じ。
ということで、有効な利用法はないか考え中。スキンケアとか。 でも、たべものとしてもらったものを化粧品にするのもなあともおもう。でもたべられないしなあ。うーん悩む。
「その娘さんは玄関に膝を突いたなり恰も自分の孤独を訴えるように、その黒い眸を僕に向けた。僕はその度に娘さんから、こうして活きていてもたった一人で淋しくって堪らないから、どうぞ助けて下さいと袖にすがられる様に感じた。その眼がだよ。その黒い大きな眸が僕にそう訴えるのだよ。」
こころにのこった文章。眠気もふきとんだ。
本を読みたいのになぜか頭の中は睡眠を第一に優先しているようで、文字を追い始めた途端、意識がブラックアウト。 そんな感じでなかなか本読みがすすまない今日この頃。
宣言通り朝から夜まで本読み。 「行人」を半分、「Xのアーチ」を3分の1読んだのだけど、本を置いたあとどちらともつかないイメージがつぎつぎによみがえってきてあたまがかるく混乱状態になった。やっぱりどっちかにしたほうがいいみたい。 なので、ひとまず「Xのアーチ」はおいといて、「行人」に専念。 週末までには読めるかな。
図書館にいっていっぱい本をかりてきたのに、なぜか本棚の中の「行人」を読んでたりする。漱石ってやっぱり良いです。 明日は朝から夜まで本読みする予定。どこまで読めるかな。
仕事が終わったその足で図書館へ。(家から近い分館の方) 読み終わった本を返して、新しい本をいくつか借りてきた。 V・E・フランクル「夜と霧」、ジョゼ・サラマーゴの「あらゆる名前」、あとはレベッカ・ブラウンとか、ラフィク・シャミとかアントニオ・タブッキとかユベール・マンガレリとか。それに、スティーブ・エリクソンの「Xのアーチ」。これは分館の方になかったので、本館に問い合わせて取り寄せてもらうことにした。 以前かりた「真夜中に海がやってきた」は物語半ばで挫折してしまったので、「Xのアーチ」も最後まで読めるかどうかいまいち自信がないけれど、再度挑戦してみようとおもう。
BSで「スモーク」 タバコの煙は見るのも(もちろん吸うのも)だいきらいだけど、 ハーベイ・カイテルとウィリアム・ハートが最後のシーンでタバコを吸う場面はあー良いなあ、とおもう。 そんなことを思いながら観ていたら、部屋に入ってきた連れ合いがテレビをみながらひとこと。 「おれ、ハーベイ・カイテル(の雰囲気)くらいにはなれるかな」 「まあおなかの出具合はおなじくらいだけどね」とわたし。 「はらだけかよ。」とつれあい。
まあでも、ハーベイ・カイテルの上半身はなかなかセクシーではないかと、個人的にはおもってます。 つれあいの上半身はまだまだその境地ではないけれど。
連れ合いがコドモと入れ代わりで修学旅行に行ってしまったので、家の中が異様に静か。 そのせいか夜がやたら長い。昨日もあまり静か過ぎて眠れず、そのせいで昼間が睡眠時間になってしまった。 そして今、昼間たっぷり寝てしまったので当然眠れず。
やっぱりいなければいないで気になるものなのだろうか。うーむ。
と、そんなことばかりもいってられないからそろそろパソコンを閉じて羊の数でも数えながら寝ることにする。どうか酷い夢をみませんように。
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えっと、上記の文章を書いてからおよそ16時間後。 案の定寝不足でぼんやりしながら夕ご飯をつくっていたら、また包丁で指を切ってしまった。 このあいだ包丁をといだばかりで、かなりの切れ味だったため爪とともに親指の先っぽがまるくけずり取られ(直径6ミリ、厚さ2ミリ程度)、かなり出血した。 バンドエイドをきつくまいて輪ゴムで指のつけねを圧迫して止血したのだけど、かなり出血したのとばい菌が入って化膿というのが心配だったのでいちおう病院にいった。 家から歩いていけるところの病院。先生はスポーツクラブの会合とかでよく顔をあわせているので顔見知り。
N「包丁で切っちゃいました」 Dr「(笑いながら)あーあ。」 Dr「(傷口をみながら)うーんはでに出血してるねぇ」 (バンドエイドをはずしたらまた一気に出血した) Dr「欠損してるから縫合の必要はまあ当然ないけど、出血はとめないと」 N「どうするんですか」 Dr「注射」 N「注射ってどこに?」 Dr「ここに(といって負傷した指の先っぽを指差す)」 N「・・・」 Dr「血管が収縮する薬を入れて打つから出血も止まるし治りもはやいよ」 N「(頭をぶんぶん振りながら)いいですいやですやめときます」 Dr「また子供みたいなことを」 N「なんか良い機会とばかりにいたぶってないですか?」 Dr「ふふふ」 Dr「(看護婦さんに向かって)注射の用意して。」 N「まだまったく同意してないんですけどー!」
というわけで、激痛の上に激痛の注射を打たれ、化膿止めと痛み止めをもらって帰ってきた次第。 一年半ほどまえにも小指の先を深く切って病院にいったのだけど、なんで何回もこんなことやらかすんだろう、とほとほと自分がいやになっている。 これは手先が不器用以前の問題じゃなかろうか。 とりあえず、包丁は二度と砥ぐまいと決意。
打ちながら気がついたのだけど、キーを打つ際、わたしは左手の親指はまったく使わないらしい。(右手の方は空白キーを打つときに使ったりする) ということでキーを打つのはとくに支障ないのだけど、ジーンズやシャツのボタンをはめたりはずしたりとか、靴下をはいたりするときとか、思いもかけないところでけっこう使っていたりして、やっぱり親指って利き手じゃなくてもいろいろ必要なんだななんて思ったりした。
と、親指のありがたみをしみじみ理解したところで、今後反省して二度とこんなことは起きないようにする・・・なんてことはわたしには不可能なんだろうなあ。
仕事休みの日だったのだけど、ずっと家にこもって一歩も外にでなかった。 で、何をしていたかというと、朝コドモを送り出してからざざっと家事を片付けて、9時くらいから3時くらいまで布団をかぶってぐっすり寝ていた。 もう少し有意義な時間の使い方はないものかと自分でも思うのだけど、優先順位をつけた結果、そのとき自分にいちばん必要なことだったのでまあしかたない。 でもおかげですこしは頭がクリアになった気がするので少なくとも無駄な時間ではなかったと思う。しかし完璧に言い訳だなこれは。
ロネ・シェルフィグ 「幸せになるためのイタリア語講座」 寝起きのぼんやりした頭のまま鑑賞。でもとても良い映画だった。 誰でも不安なこと、厄介なこと、どうしようもない心の重荷を持っていて、それでもみんな幸せになりたい、誰かを幸せにしたいって思っていて、そんな人の弱さ、かなしさ、可笑しさがとてもとてもいとおしくなるような、そんな映画だった。とても良い映画でした。
「亡国のイージス」やっと読了。 何というかすごい小説だった。ある種久しぶりの読書体験。 ストーリーを追いながら、自分の頭の中で小説世界ができあがっていくその過程というのは、まぎれもなく本読み好き人間の大きな楽しみのひとつだとおもう。
しかしながら、あーおもしろかった、ですまないものがこの小説のなかにあるのは間違いないとおもう。まえに愛国心について日記に書いたけど、戦争反対、平和主義という言葉を何かの免罪符のように使ってそれだけで安穏としているだけでは、いつまでたってもこの国は成熟できないのではないかと思う。自衛隊のあり方、国防のあり方、国を守るということの意識をもう一段階あげる時期にきているんじゃないかなと、読みながらそんなことをおもった。
「世界のすべての七月」 T・オブライエン ティム・オブライエンは「ニュークリア・エイジ」以来読んだことはなかったのだけど、思ったよりするする読めるなあなんておもった。もたもたしたところとか、だからなんなんだ!と言いたくなるようなところもあったけど(まあそういうところがたぶんこの作家の魅力なんだろうけど)それでも、違和感なく気持ち良く読むことができた気がする。
訳者(春樹氏)のあとがきの中に「人々は生き続けるために、燃料としての記憶を切実に必要としている」と書かれている部分があって、それは読んでいてよくわかるなあと思った。人生のあるポイントからそれは必要になりはじめる。そういうものが支えになる、あるいは支えにせざるをえなくなる時期がくるってこと。それはある面からみれば悲しいことなのかもしれないし、可笑しいことかもしれないし、やるせないことなのかもしれない。そういうところをこの小説はごく自然にストレートに書いていたとおもう。
今のところ「本当の戦争の話をしよう」がこの作家のベストであるらしいので今度はそれを読んでみるつもり。たのしみ。
「空中庭園」 角田光代 読みながら、ああこれはこのまえ読んだ何かに似てるなあと考えていて、読み終わってからやっと思い出した。吉田修一の「パレード」。 章ごとに視点(語り手)が変るところとか、話し言葉が多いこととか、救済のない暗さとか。 はっきりいうと、こういうのあまり好きじゃない。 完全に好みの問題だとは思うけれど。 なんか最近の若い人の小説って、局地的というか狭いというかひろがりがないというか。そのくせ技巧的と言うか。これも完全に好みの問題だと言われればそうなのだけど。とにかく、ちょっと、とうぶんいいやって感じ。
2005年05月13日(金) |
葛藤、コドモの帰宅、にぎやかな夜 |
昨日、RさんとKさんにいただいたお菓子がおいしくておいしくて困っている。
檸檬味のこんぺいとう。むちゃくちゃおいしい。
色とりどりの落雁。たおれちゃいそうなくらい綺麗。
たべたい。でもたべるとなくなる。なくなるのはいや。でもたべたい。 お二人は、甘い物好きのそういうわたしの葛藤を予想してこんなプレゼントをくれたのだろうか。うーむ。
夕方、というか8時近く、修学旅行にいっていたコドモがげんきよく帰ってきた。 帰って来るなり機関銃のようにしゃべるしゃべる。よほどたのしかったらしい。 そういうコドモの姿をみるのは楽しい。いろんなことを体験して吸収していってほしいとおもう。
朝、6時すこしまわったくらいに京都到着。 空を見上げれば所々薄く雲がかかっているけれどなかなかの快晴。 バスを降り、うーん、と伸びをして歩き出す。
駅ビルのある方と反対側の方にバスが着いたようなので、とりあえず駅ビルの方へ向かって歩いた。 歩いているうちに、じつはお腹が減っていることに気付き、とりあえず駅に入っているお店で朝ご飯をたべる。 クロワッサンとベーコンエッグとバナナジュース。 たべながら大学にいってた頃から使っていた地図を取り出し、午前中にいくお寺の位置を確かめた。建仁寺。 京都駅からそんなに遠くなさそうなので、ぶらぶら歩いていくことに。
1時間以上もかけてクロワッサンとベーコンエッグとバナナジュースをたべたせいで、お店を出る頃には駅はだいぶ人が多くなっていた。観光客とおぼしき人や通勤途中の人、学生などなど。
駅をでて烏丸通りを北に向かって歩く。 東本願寺の横を通りながら、ずっと昔のことをおもいだしていた。 同じこの道を恋人と一緒に歩いたときのこと。そのときは駅に向かって歩いていて、数十分後には別々の方向に帰ることになっていた。 離れ難くて、しっかり手を握っていたっけ。ずっとずっと昔にあったこと。
そんなことを考えつつ歩いていたら、いつのまにか四条まできていた。 確か建仁寺は四条と五条の間くらいだったと思い出して、あわてて右に折れる。 大通りをそれて小さな通りを横切りながら歩く。 小さな通りはお店の開店の準備をしたりする人や、玄関の前を箒ではいているおじさんや、園服を着た小さな子を自転車に乗せて走っているお母さんがいたりして当たり前の朝の風景がここにもあるんだな、とそれこそ当たり前のことをおもった。
高瀬川を横切り、鴨川にかかる松原橋を渡ってようやく建仁寺の境内の入り口についた。
拝観は10時から、と書いてある。 時計をみると8時10分。まだまだ間があるので東大路を八坂神社の方に向かって歩きはじめた、のは良いのだけど、祇園まで出たところで息切れがしてきたので目に入ったスターバックスに入った。カフェインレスのドリップコーヒーとマカダミアナッツクッキー。ゆっくり飲んでいるうちにまた元気がでてきた。
10時10分前、スタバを出て建仁寺の境内まで。 入ろうとしたら顔に何かがあたった。雨粒。晴れていた空がいつのまにか鉛色になっていた。細い糸のような雨が落ちてきている。 やれやれと思いながら拝観の受付にいく。
平日だからなのか、観光客もあまりいない。少し歩けば大通りで車もいっぱい走っているのに、お寺の中はとても静か。
建仁寺は臨済宗の総本山で、日本最古の禅寺なのだそう。開基は鎌倉時代の建仁2年で、当時の天皇によって年号を下賜され、建仁寺と命名されたとのこと。 今回は法堂の天井に書かれている大双龍図を見るのが目的なのだけど、枯れ山水の庭や、茶室など、見る価値のあるものが多くあった(俵屋宗達の風神雷神図は残念ながら公開されていなかった) ひととおりまわってから法堂の双竜図をみる。 ほんとうにスケールの大きい天井画だった。通常、仏法の守り神とされる龍は一体しか描かれないのだけど、あえて双龍にすることによって互いが協調する、手を携えるということを表現しているらしい。しんとした大きな空間に迫るような龍が浮かび上がっていて、しばらくずっとそんな龍の姿を言葉もなく眺めていた。
1時間半くらいたったあと、建仁寺をでて三条京阪の駅に向かう。 今回のもう1つの目的。Rさんとの京都デート。 電話で待ち合わせの場所を決めたのはいいのだけど、ぽつぽつ降っていた雨が滝のように音をたてて降ってきたため、少々変更せざるを得なくなった。待ち合わせの場所を京阪の駅から、Rさんの大学の近くの百万遍という交差点の角にした。
しばらくして現れたRさんは想像通りの素敵な雰囲気を持った人だった(じつは初対面) 二人でお昼をたべる予定のお店まで傘をさしながら歩く。小さな路地を入ったところにあるこじんまりしたとても良い感じのパスタのお店。 歩きながら、お昼をたべながら、いろんなことを話した。サリンジャーの話、堀江敏幸の小説の話、これから先の人生の話、お互いの近況、ほんとうにいろいろ。 年も違うし、育った環境も、現在の生活も、いろんなことが違うふたりだけど、そんなふうに話しができることがとても嬉しかった。とてもとても特別な数時間だった。
Rさんと別れて市バスで京都駅まで。 本当はもっと時間をかけてゆっくり京都をまわりたかったのだけど、諸事情があって帰らないといけなかった。それでも、とても濃密で有意義な時間を過ごすことができたような気がした。
名古屋駅に着いて、前から約束していたKさんと駅で待ち合わせる。 短い時間だったけど、お互いの近況を話したり東京や京都の話をしたりした。 久しぶりにあったKさんはますます素敵女性に磨きがかかっていて、ああわたしもこんな雰囲気を持った女性になりたいな、とためいきまじりにおもった。
万博に来られるSさんへのプレゼントを預かって、駅でKさんとさよならする。 手を振り合って、元気でねと声をかけあう。今度はいつ会えるだろうか。また笑顔で会える日がくるといいな、そんなことを思った。
そんな感じで小旅行というか小移動が終わった。 長いような短いような、不思議な時間だった。 でもまたこんな時間を過ごしたいと思った。 変る事のない日常の合間に、ふらっと。
2005年05月11日(水) |
小旅行というか小移動というか |
時間ができたのでふらっとでかけてみた。東京。 主な目的は山種美術館にいって速水御舟と東山魁夷の絵を観ることだったのだけど、ななんと展示入れ替えのため3日間閉館とのこと。 オーマイガー。 仕方ないので市ヶ谷記念館とか行ってきた。
三島由紀夫が演説したバルコニー。そのあと周知のとおり割腹自殺したのだけど、介錯人が失敗して結構長く苦しんだらしい。極東裁判(東京裁判)が行われた建物で、現在はひっそりと目立たず記念館として建っているが、雰囲気的に沈鬱というか重苦しいものを感じた。
記念館を出たあと国立美術館にゴッホを観にいくつもりで近くまでいったのだけど入り口で25分待ちなんて係りの人が言ってるので、即回れ右して近くにある国立近代美術館工芸館というところに行った。
結構歴史のある建物らしい。雰囲気が良くてすごく落ちつけた。
伊砂利彦という型染めの作家の展示をみてきたのだけど、これが結構良かった。 最近どうも日本画や和柄、デザインパターンなんかに目がいってしまう。 水辺をイメージした型染めが特に印象に残った。フェルメールのようなすいこまれるような青ではなくて、毅然とした人をよせつけないような青。 綺麗だった。
美術館工芸館をでて、北の丸公園へ。 千鳥ヶ淵の緑を眺めながら歩いた。 それから田安門を出て九段下から地下鉄に乗った。
地下鉄に乗って、六本木とか渋谷とかみてまわった。 どこに生息しているんだろうというくらい人が多くて、そんな人の波を見ながらこの人たちのひとりひとりに自分と同じような生活があるんだよなあ、なんてことをぼんやり考えた。
渋谷では迷子になった。ふらっと入った帽子やさん(BOUSHIという名前のお店だったとおもう)で気に入った帽子を見つけたのだけど、結局買わずにでてきた。でて5分くらい歩いたあと、やっぱりほしい!と思ってもどったのだけど、見つけられなかった。 ハチ公のそばに辿りつくのに30分以上かかった。
夕ご飯、Tさんおすすめのおでんのお店。 トマトのおでんとかつくねの焼いたのとか温野菜のバジルソースかけとか とってもおいしかった。寒い東京の夜におでんがたべられて小確幸。 あたたかいキモチになれた。御馳走様でした。(深く感謝)
夜、まだまだ人の波がなくならない新宿の駅でバス待ち。 西口にでるつもりがいつのまにか南口にでてしまっていて少し焦ったけど、なんとか定刻前に集合場所につくことができた。 京都行きの夜行バス。宿泊費と移動の費用をかねてちょうどいいなあと思って予約した。 早朝6時くらいに京都に着く予定。
時間ができるとふらっとでかけてしまうのはよくある(といっても1年に2、3回)ことで、自分ではそれなりに意味のあるものだと思っている。 実際、普段の日常から離れて、自分をニュートラルな状態にもどすことが(ほんのつかのまだけど)できたし、そういうことが自分には必要なことなのだろうとおもう。
やわらかくてあたたかな風が吹くようになった
緊張がほぐれて、からだがかるくなる感じ
うーんと伸びをして
さあなにしよう?
そんな休日の午後
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