Opportunity knocks
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改訂された広辞苑第六版に「やっとかめ」という新語が加わったのだそう。
愛知県外に住まれている方には???という言葉なのでちょっと解説してみると、「やっとかめ」というのは要するに「ひさしぶりだねー」という意味。 でもまあ正確なところをいうと、「やっと」というのはようやくという意味合いで使っているわけで、ずっと顔をみてなかったけどようやく顔を見ることができたねというのがニュアンス的に正しい。
例をあげてみると。
A「あれ、おみゃーさん、やっっとかめだなも!」
B「まーなんとかやっとるで、おみゃーさんこそ元気かや?」
こんな感じ。。。
わたしは基本的に北陸育ちでイントネーションは関西なので、ヨメにきた当初はこの言葉がよくわからず、やっとかめ???やっと亀??亀になんの関係が??と頭が軽くパニックになった。
でも、「やっとかめ」という言葉にはなんかやたらと含みがあって「しばらく会えなかったけど元気だった?」という意味のほかにも、「ずっと顔もみせんと、あんたなにしとっただ?」という恨み的な意味合いもあって、言われる方からすると、ちょっと身構えてしまう言葉ではある。 因みにわたしは主にこの言葉を姑から言われるわけで、1、2週間顔をみせないと、開口一番これを聞かされてしまう。といっても同じ町内に住んでいるのだけど、、、。
で、結局なにが言いたいのかというと、いまどきお年よりくらいしか使わないような言葉がなんで新語として広辞苑に加わったのか?ということ。 もしかして「やっとかめ」が若者のあいだでブーム的に流行ってたりするのだろうか。女子高生が「最近カラオケやっとかめだったりするわけー?」とか言ってたり? まあそれはなさそうなので、言葉の文化のひとつとして認められたということなのだろうね。
とそんなことをぼんやり考える仕事休みの朝なのでした。 さて、買い物いってこよっと。
月曜日の朝ご飯はいつもちょっと良いものをたべる。 そうすれば月曜日の朝もまあ悪くない、って思えるから。
ということで今朝は淹れたてのコーヒー、ヨーグルト+ラ・フランス&柿、 スクランブルエッグ、クランベリーと胡桃のムレン(固めのパンです) モツァレラチーズと水菜とトマトのサラダを作ってたべた。 おいしかった。今週もがんばろう。
先日また衝動買いをした。
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でもなかなかよいです。 最近半径5k以内はこれで移動してます。 でもまあ今の季節で終わるでしょう・・・。
おまけ
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我が家の愛車。
手前がHONDAのジョーカー 奥がベスパ。
今の季節はこういう乗り物が気持ちいいです。
最後にもひとつおまけ
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コドモ。文化祭にて。 なかなかたのしそうでした。
映画をみにいこうかなと思いつつ、くしゃみが相変わらず頻発するのとたえず涙目になってみっともないので、外出はあきらめて家でDVDでもみることにした。
周防正行監督の「それでもボクはやってない」 人が人を裁くってとてつもないことだなあと常々思っているのだけど、これをみてその思いをさらに強くした。 最近富山で冤罪事件が明らかになったばかりだけれど、裁判官でさえも人は罪を犯し得るわけで、確かに自分の目で見てもいないことを推測(その中にはさまざまな裏づけがあるわけだけど)でもって判断しなければいけないという難しさを人は宿命付けられているのだなということをあらためておもった。
もし自分がやってもいない罪で起訴されるようなことになったら、たぶん無実を晴らすために戦うとは思うのだけど、それがいかに困難な道であるか、思い知らされたようにおもう。
2007年10月17日(水) |
くしゃみ先生って漱石の小説だったっけ? |
一日に100回近く(というのはいくらなんでも誇張か)くしゃみしてるような気がする。 普段くしゃみというものをほとんどしないので、これだけくしゃみがでると純粋に感心してしまう。
ばい菌を排出するために、くしゃみしたり咳をしたり、とめどなく鼻水を流したり。人間の体ってほんとすごいです。
熱は無くなったので、明日はおとなしくしつつ休日をたのしむ予定。 「サッド・ヴァケーション」みにいこうかな。 とりあえずくしゃみがもうちょっとおさまりますように。
コドモはもうすぐ中間テスト。 ここ数日古典の勉強をみてやっている。 古典はいちばんの苦手教科らしく、いろいろ説明してもなかなか理解がすすまない。 テスト範囲は「源氏物語」の桐壺、箒木と古典文法、漢文。
教科書の原文とにらめっこしてても拒否反応がでるばかりなので、 本棚にあった田辺聖子訳「新源氏物語」を読ませる。
コ「(読みながら)うん、こうやって書いてあるとよみやすい」
少しは内容が頭に入った様子。 現代文も古典も物語の面白さは変わらないのだけど、見た目(原文)の小難しさに圧倒されてしまってなかなかその境地までは至らない。 もっと物語の面白さを全面に出して、その面白さを理解させてから細部に切り込んでいくという風に教えればもっと興味を持ってもらえるとおもうのだけど。まあ少ない時間数でそこまでは(やりたくても)やってられないのだろうね。
と、あーだこーだ教えているうちに久しぶりに読みたくなったので、今「新源氏物語」熟読中。 宇治十帖を読みながら、匂宮と薫は足して2で割れば調度いいのにとおもっていたら、その足して2で割ったのが光源氏だったんじゃないかということに気付いた。 誠意はないが恋愛上手の匂宮と、恋愛は下手だがまめやかな情はある薫、そんな源氏を分裂させたようなキャラクターを書き分けている宇治十帖は、作者にとってもちょっと実験的なものだったんじゃないかな、と、読んでいておもった。おもしろいです、源氏物語。
頭痛がするなあ、(アルコールとか)飲んでもいないのに、 と不思議だったのだけど、寒気がして熱を測ってみたら38度近くあった。風邪。
季節の変わり目に律儀に風邪をひくという、いつからそんな軟弱な体になってしまったのだろう。
布団をかぶって、瀬尾まいこの「幸福な食卓」を読んだ。
目がうるんでますます頭痛がひどくなった。
でも良い小説だったとおもう。
夜、ETV特集みた。 「21世紀のドストエフスキー テロの時代の預言書」
亀山郁夫さん、加賀乙彦さん、金原ひとみさん、森達也さんがドストエフスキーについてそれぞれの考えを語るという感じで番組が進んでいくのだけど、今の時代になぜドストエフスキーなのか?ということがそれぞれの視点で語られていて非常におもしろかった。
悪とは何か、善とは何かということをドストエフスキーは小説の中の人間の声をかりて語りかけてくるわけだけど、そういう問いかけ自体がもともと自分の中に存在しているということ、多くの人はそのことに気付いてもいないのだということを、ドストエフスキーの小説は率直に気付かせてくれるような気がする。 そうやって自分自身に問いかけをすることが現在の世界では求められてるんじゃないかな。なんとなくそうおもった。
カラマーゾフの兄弟、また読んでみよう。
2007年10月13日(土) |
手紙ってほんとうれしい |
一日ずっと仕事で疲れてとぼとぼ帰ってきたら、 ポストの中に手紙らしきものが入っていた。 誰からだろうとおもって急いでみたら、Rさんからの手紙!
帰省されたとのことで、現地で写された写真が2枚同封されていた。 幸せそうで元気そうな顔。つられて笑顔になってしまった。
そしてプレゼント!早速使わせていただきますね ありがとうございます!
来年の春には会える予定、たのしみだなあ。
くびをながーくしてたのしみに待ってます!
2007年10月12日(金) |
昨日のボクシングのこと |
あんまりよくボクシングのことは知らないけれど、昨日の試合が公平な目で見てかなり不公平なものであるということは素人目にもよくわかった。 ファイトマネーからして敗者の方が勝者より10倍近く多いらしいし。まあプロボクシングの世界ではままあることらしいけど、それにしても王者側がここまで譲歩というか我慢しなければいけないタイトル戦もめずらしいような気がする。
実況もきいてて何かおかしいなと思った。そろいも揃ってなんか歯切れが悪くて中途半端なことしか言わない。さらにどう考えても亀田寄りとしか思えない発言。ジャッジこそ内藤の圧勝だったけれど、それにしても18才の大して実績もない新人選手に対して、そこまで持ち上げる必要がはたしてあるのだろうか。あと、あの最後には笑えてくるくらいどうしようもない反則技の数々。サミング(目潰し)あり頭突きあり吊りだし(相撲?プロレス?)あり、、。あの時点でもう反則負けのジャッジでもよかったのでは?
とりあえずTBSと協栄ジムと亀親父は間違いなく酷い。共通してるのはカネの亡者であること。カネを中心にして強力に繋がってる関係というのが普通にみててもわかる。 そんな汚い大人に利用されて(人並みな教育も受けられず、人並みな社会性も皆無のまま)ボクシングマシーン(もしくはカネのなる木)にされている亀兄弟はとりあえず犠牲者ともいえるような気がする。
そんな中、少しでも内藤のファイトマネーを多くするために大金をはたいてチケットを買ったまっとうなボクシングファン(会場に内藤を応援する観客が多かったのはそういう理由かららしい)の存在や、一生懸命自分のボクシングをやり通そうとする内藤のプロとしての意志は、すばらしかったとおもう。 そういう存在がこれからもボクシングというスポーツを牽引していくんじゃないかな。そうであってほしいとほんとうにおもう。
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