日々雑感
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『ロルカ・スペインの魂』中丸明(集英社新書)読む。生まれた土地から旅立ってゆく、あるいはそうせざるを得ない人と、その場所から終生離れられない人と、誰もがそのどちらかに分かれるのだという。だとすれば、繰り返し自らが生まれたアンダルシアの地に戻り、フラメンコにのめり込み、民衆歌謡である「カンテ・ホンド」を採集して回ったロルカは、間違いなく後者だろう。
一日雨。青くなり始めたあじさいも濡れる。
夜道を歩いていると、犬の散歩中の人とよくすれ違う。大きなゴールデン・レトリバーを連れた人、赤い服を着込んだミニチュア・ダックスと女の子、2匹のチワワに引っ張られるおじさん。犬と共に歩きながら、皆何を考えているのだろうといつも思う。ひとりで歩くときのように他のことに意識が飛んだりするのか、小さな子といるように、いっしょの目で何かを見ているという感じなのか。
明日は雨になるという。風がだんだん強くなる。
明け方までチャンピオンズ・リーグの決勝を観戦。ミラン優勝に早朝から祝杯を上げたせいもあって、一日焦点の合わないまま過ごす。外は快晴。
線路沿いにドクダミの花が咲いている。それにアザミ。ヒメジョオン。いつの間にか緑がずいぶん濃くなった。歩きながら、途中で近所に住む友人とばったり。外出先から帰ってきたところらしい。白い日傘を差して、サンダルを履いて、ああもう、季節はしっかり動いているのだ。部屋の中にこもってビールなど飲んでいる場合ではないと、しばし反省。
麦茶ばかり飲んでいる。よく冷えた麦茶は夏休みを思わせる。強い陽射しとか、蝉の声とか、すだれ越しに入ってくる風だとか。
夜、近所の本屋へ。いつの間にか棚が一段ずつ積み重ねられて本の量が増えている。文庫や単行本の売り場も変わり、勝手が違う。知らない本屋に来たようで面白い。棚の間をぐるぐる歩き回り、結局立ち読みだけして帰宅。
近所の弁当屋へ。昼どきには人だかりが出来る店だ。
おかずが多く、どれも美味しく、いつも出来たてで温かく、毎日でも通いたいくらいなのだが、値段がやや高めなので「ここぞ」というときのための取っておきにしている。今日は久々に奮発。「もうすぐ出来るんですけど、どうですか」と勧められた中華弁当を買う。鶏肉、ピーマン、きくらげの炒めものに、中華風じゃがいも煮込み、筍のあんかけ、煮玉子、漬け物、それにご飯。
この弁当屋、家族経営の小さなお店なのだが、母親と娘がほんとうにそっくり。店頭に立つ姿を見るたびに「よくぞここまで」と遺伝子の神秘を感じる。
夕方からは小雨。暗くなるのが早い。
夕方、地震。東北のほうで震度6というニュースを聞き、実家に電話してみるがつながらない。電話回線が乱れていたらしく、夜の9時頃になってようやく連絡がとれる。「急にひどい眩暈がしたので『ついに身体がおかしくなったか』と思ったら地震だった」。とりあえず、大きな被害がなくてよかった。
ちょうど20年前の同じ日、やはり東北日本海側で大きな地震があった。小学校での理科の授業中、カタカタという小さな音がしたかと思うと、いきなり自分たちを取り囲むすべてのものが大きく揺れ始めたのだ。少し大きめの地震はその後何度も経験したけれども、それらと何かが決定的に違う。空気そのものが震えて、世界全体が音をたてて唸る。自分が小さかったからそう感じたのか、それとも、あれが大地震というものなのか。派手に開いたり閉じたりを繰り返す窓ガラスの向こうで、プールの水が信じられないほど高い波をつくっていたのを覚えている。
地震の怖さは、自分たちではどうしようもないことに対するそれだ。固いと信ずる地面の上に立っていることすら、簡単に覆され得るのだ。
夜、各テレビ局では地震のニュース。地元の駅が中継で映る。「あ、あの店」「この制服はあの高校」など、一瞬地震を忘れて見入ってしまう。
理論社から、梨木香歩の絵本シリーズが刊行されている。
これまでに出たのは『ペンキや』『蟹塚縁起』『マジョモリ』の3冊。ひとりのペンキ屋の生涯であったり、「蟹塚」の縁起を語る民話風のお話であったり、小さな女の子のある一日を描いたり、それぞれに手触りは異なるのだけれども、どこか深いところが共通している。何だろうと思ったが、たぶんそれは「時間」というモチーフだ。時代とか、今ここに「人」という形をとって存在することとか、そういった枠組をとりあえず傍らに置き、いろんなものが時間をも越えてつながってゆくということが、3作の通奏低音となっている。
絵がまたよい。それぞれに「この人の絵でなければダメだろう」と思わされるような組み合わせ。『蟹塚縁起』の木内達朗も『マジョモリ』の早川司寿乃もよいけれども、自分がいちばん好きなのは『ペンキや』の出久根育。特に最後のページの絵は、手を止めて見入ってしまった。
小さい頃、こんな本が毎月一冊届いていたら、きっと夢中になって読んだだろう。もちろん、今でも。この絵本シリーズはもう少し続くようで、次作も楽しみ。
夕方から演奏会。
もう何年も会っていなかった人が聞きに来てくれたのだが、「全然変わらないね」と言われる。「変わらない」というのは、いいことか、悪いことか。そういえば、高校生の頃、道行く人にいきなり「おまえ、同じ幼稚園だったろ」と聞かれたこともあった(そして、確かにその通りだった)。
終演後、打ち上げ。ビールが泣けるほど美味い。ものすごく久々に遅くまで飲み続け、店の外へ出る頃には、渋谷の空は白々と明けていた。
お寺の中の近道を抜けてバイト先から学校まで歩く。
大きな桜の木に囲まれた境内は、陽の光であたたまった地面の匂いがする。小さな花束を手にした人とすれ違う。墓石の陰には目を細めて丸くなる野良猫。
夕方、久々に新宿。友人とお茶。駅前の店の隅っこの席にて。
友人から手紙届く。ほんとに小さい頃からの古い友人である。
その中の一節。他のことに気を散らさず、やりたいようにやっていくのが、たぶんあなたにはふさわしい。小さい頃、草茫々の道なき道を、どしどし進んでいたみたいに。
実家の周りは一面の草っ原だった。丈の高い草、ススキ、棘のあるハマナスの茂みに紫色のハマエンドウ。その中に入り込んでゆくのが好きだった。藪を掻き分けながら、よく指先を蜂に刺された。そして、ときおり風が吹くのだ。草や木が鳴る。空がぎらぎら光る。潮の匂いがする。
「あれ」が、あなたのイメージだと友人は言う。もし人に、原点となるような行動や姿があるのだとすれば、自分の場合はたぶん、友人の言うその姿なのだろう。何があるかわからないところへ入り込んでゆきたい。
夜、友人とカレー。そのあとコーヒー。友人が注文したオレンジムースケーキはものすごく美味しそうだったけれども、甘いもの断ち中につき、涙をのんで我慢する。
古本屋にて『セーヌ左岸で』犬養道子(中公文庫)購入。
一度しっかり「聖書」を読みたいと思いながら、ずいぶん経つ。聖書を読みやすくまとめたもの、小説風に仕立てたものなどはいろいろあるけれど、読むならば絶対に犬養道子のものがいい、と、あるときある人に言われた。その人の「いい」という本や音楽は、どれも自分にとってはほんとうに「いい」ものであったので、それ以来、聖書を読むならば犬養版でと決めている。
近所の図書館にも、旧約・新約ともに犬養版が揃っていて、書棚の前に行くたびに足を止めはするが、何となく手を出しかねたまま。いまだ、文庫になっているエッセイ(と呼ぶにはあまりに硬派な文章)のあたりをうろついている。
久しぶりに晴れた。街に雨の匂いの名残り。
夕方からゼミ。外は雨に雷。窓から稲光が見える。
天気予報ではっきり「雨」と言われても、朝から降っていない限りほとんど傘を持ち歩かない。小雨ならばそのまま歩く。しかし、今日はやられた。久しぶりのどしゃ降り。駅まで走ろうと思ったら、帰る方向の違う後輩の女の子たちが、こっちはふたりだから一本で大丈夫です、と言って、傘を一本貸してくれる。
電車の車内も雨の匂い。外を見るでもなくぼうっとしていたら、一駅手前で降りてしまう。結局、貸してもらった傘を手に雨の中を一駅分歩く。花柄の大きな傘。
外に出ようとすると、門の前に大家さんの猫モモちゃんの姿。いつもは名前を呼んでも見向きもしないのに、なぜだか今日は足元にすりよってくる。どういう風の吹き回し。でも嬉しい。相手をしようとしゃがんだその途端、しかし、しっぽを踏みつけてしまう。
モモちゃん、毛を逆立てて逃げる。もう二度と寄ってきてくれないかもしれない。
日曜日、近所の図書館は盛況だけれども、学校の図書館はがらがら。ちょっとした物音がびっくりするほど大きく響く。
月日が経って、いつか大学のことを思い返したとき、真っ先に浮かんでくるのは図書館の匂いであるような気がする。薄暗い書庫のかび臭い空気。ここに出入りした人びとの息づかいだとか、時間だとかが、流れて行かずに沈殿している。
夕方まで粘ろうと思っていたが、あまりにお腹が空いたので早々と切り上げ。何しろ、お腹の音が建物中に響きわたるのでまいった。
久しぶりに長い手紙を書く。メールばかり使っていたせいか、まっさらな便箋を前に、はじめのうちはペンの運びも文章も妙にぎこちなくて困った。考えるスピードを越えて暴走してしまいがちなのがメールだとすれば、手書きの場合は、自分の声を自分で聞きながら語りかけるペースに近いと思う。
夜、渋谷のスタジオで練習。3時間集中。帰り道は小雨。
ときどき魚の夢を見る。その舞台は決まって月夜だ。
昨日もそんな夢を見た。窓の外、宙に浮かぶように小さな魚が泳ぎ回る。目をこらすと、あたりにはひたひたと水が満ちている。あまりに透明で水面の境い目がわからないのだ。水の中に沈んだ街の底でゆらゆらと草が揺れる。金魚鉢を満月に透かして見たときのように、月の光が水を染める。反射して光る無数の魚の腹。月と水と魚と、シンボリカルな形象。
肌寒い日がつづく。今日もうすぐもり。快晴がなつかしい。
友人、上京。もうひとりの友人とも合流し、夜は三人して飲む。ビール、焼酎ときて最後に泡盛を注文すると「アルコール度数が10度、20度、40度とありますが、どうされますか」。すかさず二人に「40度!」と叫ばれる。その40度泡盛、確かにきついが美味かった。残りの二人は梅酒。すっかりいい気分になって大いに話す。
朝からの雨は夜になっても止まず。小雨の中、傘は差さずに歩いて帰る。
夜ゼミ。参加者のひとりが差し入れとして全員分のおにぎりを持ってきてくれる。既婚者である彼に、奥さんが握ってくれたのかと先生が聞くと「いや僕が」との答え。海苔でしっかり巻いて、さらにラップで包んで、鮭フレークが入ったおにぎり、美味しかった。
帰りは10時すぎとなる。夜道、大家さんの庭では薔薇の花が盛り。暗がりの中でも薔薇の色ははっきりわかる。
昨晩は地震があった。ニュースでは震度3と言っていたけれど、もっと大きいかと思った。古いアパートなので揺れがひどいのかもしれない。
いきなり足元が揺れる。瞬間、あたりの気配が変わり、窓ガラスや家具が鳴る。じっと息をひそめ、収まってほっとしたと思ったら、またすぐに激しい揺れ。同時に豪雨。自分の周りのあらゆるものが音をたてて崩れ落ちてゆくかのようで、世界の終わりとはこんな感じかと思った。
自分の力ではどうしようもないものがある日現れて、楽しみにしていたことも、明日やろうと思っていたことも、そこに呑み込まれてしまったりするのだ。わかっているのに、忘れていること。
やがて雨の音は止む。しんとした、いつもの夜である。
うすぐもり。午後には晴れ間。風は冷たい。
いろんな用事が一斉に押し寄せてきて、いっぱいいっぱいの日々。そんなときに限って、ちょっとだけ寄り道した本屋には面白そうな新刊が並ぶ。新聞には気になる映画の広告が載る。読みたい本も観たい映画もたくさんあるけれども、とりあえず一段落つく来週末まではおあずけだ。
それでも、うたたねはしてしまう。バスの中に忘れ物をする夢見る。何を忘れたのかは思い出せない。
肌寒い日。大家さんは庭に出て植木の手入れ。大家さんの猫モモちゃんが、少し離れたところから、その様子をじっと眺めている。どちらとも相手にちょっかい出すでもなく、上空を行くヘリコプターとハサミの音だけ響く。
家の中で作業していると眠ってしまいそうなので、仕事道具一式抱えて近所の喫茶店へ。人が大勢いる場所へ行くと、特に耳をそばだてているわけではなくとも、ラジオでちょうどチャンネルが合うように話の内容が聞こえてくることがある。今日、とある町のとある喫茶店で話されていたことは、自分の子どもは共学の学校へ行かせたい、都市論のレポートは7枚まで、今年は阪神優勝か。
夜、蕎麦をゆでる。最近は麺ばかり。
部屋の掃除。本棚の奥を片付けていると、はじめの数ページだけ使われ、あとは手つかずというノートが何冊も出てくる。日記やら勉強やら書きものやら、三日坊主の軌跡。自分の無精ぶりが身にしみる。
以前南米に行ったときに書き付けていたメモも発見。10ページもないのだが、すっかり忘れていたことなどがいろいろ出てきて、つい読み耽ってしまう。
街中のホテルへ両替をしに行ったときのこと。入り口前に小さな子どもたちが固まって遊んでおり、自分らを見るなり「チーノ!」「オラ!チーノ!」と声をかけてきた。「チーノ」とはスペイン語で「中国人」のことで、東洋人はとりあえず皆「チーノ」と映るらしい。状況によっていろんな意味がこめられるのだろうけれども、少なくともそのときは、皆目をまんまるにして立ち上がり、顔いっぱいで笑って、「オラ!」「オラ!チーノ」と興奮気味にあいさつするものだから、こっちもつられて「オラ!」などと返していた。
他にも、飛行機の窓から見た夜明けのアンデス山脈だとか、ムカデをかたどった謎の遊具のある公園だとか、探している場所がなかなか見つからず、一生懸命走り回ってくれたタクシーのおじさんだとか、あるいはアルティプラノで遠く影となる羊の群れ、ホテルにいた極彩色のオウム。忘れていたことが不思議なくらい、はっきり浮かんでくる。
そのノートの後半には、旅行後のスペイン語学習計画も書かれている。数ページつづいて、残りは白紙。この三日坊主はちょっともったいなかったと、今にして思う。
この夏、火星が約六万年ぶりに地球に大接近するという。最接近する8月27日には、マイナス3等の明るさにまでなるらしい。
記事が載っていた読売新聞によれば「火星がこれほど近づくのは、ネアンデルタール人が見た、紀元前57537年以来のこと」。気が遠くなる。けれども、星や宇宙や地球のことを考えたときに感じる「遠さ」とか「途方もなさ」は好きだ。次の大接近は2287年というが、その頃にはもちろん自分はいない。今、自分の周りにいる人も誰もいない。そのとき地球は、世界は、どんなふうだろう。
2003年5月8日の東京は雨。星空は見えず。
夜道、路地の真ん中に大きなカエル。じっとして動かず。横目で見ながら通り過ぎ、しばらく行くと次に白い野良猫。やがて居酒屋の赤提灯。
居酒屋は踏み切りのすぐ側にある。小さな店で、入り口前にはくねくねした文字で「やきとり」と書かれた看板が掛かる。暑さのせいか、今晩は戸が開けられたままだ。前を通りかかると、カウンターに座った女の人がちょうどビールのジョッキを飲み干す瞬間。ものすごく美味しそう。少しぬるい夜風が入って、テレビからはナイター中継が流れて、ときおり踏み切りと電車の音が聞こえてくる。この店の中では、夜はゆっくり更けてゆくだろう。
天には霞む三日月。まばらに星。
夕方からゼミ。いつものように長丁場となる。
窓からはカエルの声が聞こえてくる。少し湿った風も入る。これはもう、夏の夜の匂いだ。いろんなものの気配が溶け込んだ、あの空気である。
帰りの電車は満員。すぐ側に、まだ2歳にもならないくらいの小さい女の子を抱いたお母さんが立つ。口をへの字に結んで、目を見開いて、母親の肩にしがみつくその表情が何かに似ているなあとずっと思っていたのだが、駅に着き、ホームに降りたとたんに気づく。佐藤さとるの「コロボックル物語」で描かれるところの、挿絵のコロボックルにそっくり。
とにかく眠い。寝ても寝ても、眠い。まさに春眠暁をおぼえず。
端午の節句ということで、銭湯は菖蒲湯。束ねられた菖蒲の葉が湯舟に浮かんでいる。香りは柚子湯ほど強くないけれど、うす緑の色あいがきれいだ。菖蒲には邪気を払うという意味があるらしい。銭湯にて厄払い。帰りがけに「こどもの日」限定サービスで、ヤクルトももらう。
今日も暑い。部屋の窓も開けっ放し。
夜、NHKアーカイブスにて「未来少年コナン」をやっている。なつかしい。粗筋など忘れているところも多いが、オープニングに流れる、世界大戦による終末のイメージだけは記憶のままだ。地割れ。燃え落ちてゆくビルの群れ。まだ一桁の年齢だった自分がどんな思いで見ていたのかは分からないけれども、何にせよ、その場面が強烈に印象に残ったのは確からしい。
この話の中で、地球が滅びかける世界大戦が起こったのは2008年という設定。今自分たちが暮らすのは、あの頃の近未来か。
昨日見た夢。どこにいるのか、何をしているのか、状況は全然わからないのだけれども、ただ「百舌の速贄」という言葉を一生懸命に繰り返している。もずのはやにえ。もずのはやにえ。さすがに今回ばかりは解釈不能。
暑い日。夕方、熱したアスファルトにホースで水を撒いたときのような匂いがする。遠くで烏が鳴く。急に風だけ涼しくなった。
ツツジ咲く。大家さんの庭には白い牡丹。
『バルセロナ』岡村多佳夫(講談社現代新書)読む。スペインならば、アンダルシアかカタロニアに行きたい。ガウディもミロもカザルスもカタロニアの生まれだということの意味について、今さらのように考えてしまう。ミロが語ったというように「普遍的であろうとするならば、自身の土地に深く根ざしていなければならない」として、彼らのような人物が次々と出てくる土地というのは、いったいどんな場所か。
日がずいぶん長くなった。6時を過ぎてもまだ明るい。口笛を吹きながら歩く人あり。その後ろをゆっくりと猫が行く。
展覧会「星野道夫の宇宙」へ。なぜか会場を「松坂屋」だと思い込み山手線を御徒町駅で下車、入り口前まで行ったところで券を確認し、実は「松屋」だったと知る。やってしまった。上野滞在時間わずか数分にして、そのまま地下鉄で銀座へ移動。
写真はどれもすばらしかった。例えば山の中で、森の中で、海辺で、不意に生き物を見かけたときのドキドキするような感覚を思い出す。アラスカの地に生きるクマやアザラシも、それを見つめる自分自身も(それは、写真を撮っている星野さんであり、その写真を見る自分たちでもある)、自然の中で等しく命持つ存在である。弱さも儚さも同じ。そうした者とめぐりあえた喜び。互いの息吹を感じあう不思議。そして、そんな自分たちを丸ごと抱え込むようにして山が、海が、川がある。雪が降る。オーロラが浮かぶ。クマの目にうつるものも、自分たちの目にうつるものも、同じ。同じ命として交錯する。すれ違う。そのひとときの、どこか悲しみにも似た幸福感。
ものすごい人出で、ゆっくり観られなかったのだけが残念。また行きたい。
夜、コロッケパン。キャベツがたくさん入っていて嬉しい。
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