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取り急ぎ
2004年08月19日(木)
ここ数日は身辺が忙しくて、なかなか更新できていません。 ご訪問いただいたお客さまには申し訳ありません。 本日、24日の手術に向けて父も入院いたしました。 これからまだ落ち着かない状況が続きそうです。 更新がランダムなのは、今に始まったことでもないのですが ^^; 不在が続くとご心配をおかけしてしまうので、ひと言。
元気です
折りしもオリンピックたけなわ(というのかな?) 夏休みの方もいらっしゃることと思います。 この話題、やはり面白いですよね。 残念なことに私は体操を見逃していて、つくづく涙.。o○ 語り出したらきりがないくらいに、色々思うことがありますよね。
月初のクラス会に出席しなかったので、あちこちの同級生から電話やメールも届いています。 深刻なものもいくつかあり、考えさせられることも沢山あります。
今のところゆっくり書いていられないのですが、『介護医療について』『卓球の愛ちゃんのこと』『日本のサッカーが弱いわけ』『がん告知(特に高齢者への)は必要か』などなど、テーマはいくつかありますが、忘れないでいたらいつか綴りたいと思います。
忙しい中、オリンピックも気になるし、読み始めた『竜馬がゆく』の続きも読みたいし・・・。 あれもこれも、欲張りです。(笑)
掲示板への書き込みもありがとうございます。 お返事が少々遅れ気味となっておりますが、少しお待ちいただければと思います。 皆さまのところへの訪問もなかなか出来ない状況ですが、落ち着きましたらゆっくりと♪
まだまだ酷暑が続きそうです。 皆さまお体にお気をつけて、もうひと頑張りいたしましょう♪
やさおとこ
2004年08月16日(月)
昨日見た男子柔道の内柴選手。 外見が今まで見てきた柔道のひとというイメージじゃなくて、とってもとってもやさ男。ひと目見たとき、もしかして元読売巨人軍の駒田?と思ってしまったくらい、どうにも闘志とか闘魂とかいったイメージからは離れていて、このひとがこれから勝負をするのかと何だか不思議な気持ちでありました。
聞けば、昨年四月に計量失格になるまでは一つ軽い、60�禅蕕砲い董¬鄲質�手にはいつも負けていたという。何でも試合の最後には、減量のためにフラフラ、汗も出ない状態でいたのだとか。
野村選手はもともと痩せ型で、日に二度もお風呂に入れば簡単に体重が落とせるというくらいそのことに苦労はない人だから、そういうハンディは大きいでしょう。空腹で眠れない夜は辛いでしょうし、スタミナがモノをいうし。
しかし、階級を一つあげてみれば逆に、60�禅蕕巴辰┐蕕譴織好圈璽匹録蠅┐此■技邱臍瓦動賈楙,舛覆鵑討いΔ海箸鬚靴討里韻舛磴辰燭蠅垢襪錣韻任后�
柔道選手、私の好みとしては、野村とか古賀さんみたいに、どちらかというと、小粒で闘魂タイプのひとだったのですが、こういうひともいるんだなと、思ってしまったりしました。
スポーツ欄に載る勝負中の写真、野村なんてどれを見ても勝気強気の絵になる男なんだけど、このひと違いますよね。あの柔ちゃんだって、ひとたび試合から離れると全く別人の穏やかな顔ですが、試合中の顔はとてつもない勝負師の顔でしょ?ところがこのひと、笑う時に三日月目にこそならないけれど、試合中も試合を離れた時の柔ちゃんみたい。それがとても新鮮に見えました。
野村選手は、その前も、その前も、気持ちのよい一本勝ちを見せてくれて、今回は残念ながら決勝ではそれを見ることが出来ませんでしたが、この内柴選手、軽量クラスで初めから終わりまで一本勝ちというのは、やはり柔道の真髄ではないかと思います。
余談ですが、私が好きなスポーツは、一瞬にして攻防が入れ替わるスピード感のあるもので、その筆頭にバスケットボールがあるのですが、男女ともにこのスピード感のある軽量級(っていうのも変?)の柔道は、だからもうその条件をきっちり満たしていたりします。 目にも止まらぬ速さで次から次へと技を繰り出し、あっというまに背負い投げ!みたいなのは好きですねぇ、気持ち良くって。
ん?だとすると体重が重くなるとどうなるの?と言われそうですが、実をいうと、だんだん重くなるにしたがって、あんまり面白くないと思ってしまうのが勝手な実情です。特に女子ともなると・・、だって動かないだもん。(笑)
え?じゃバスケ全部見るのかって?? バスケはねぇ、高校生以上になるとやはり男子ですね。 小学生のバスケ、全国大会なんかの試合は男女ともにそりゃもう猛烈にスピード感があって、小学生であることなんか嘘でしょ?っていうくらい高度なテクニックを次々と披露してくれるんだけど、そうだな、中学生にもなると、女子はだんだん重みが出てきて動きが俄然変わりますね。全体の試合体系が変わります。
そこへ行くと男子の方はまだまだ速い。いや、場合によってはますます速い。だから、高校生になるころには、断然男女のスピード差は開いて、大学、社会人になってもそれは変わらず、結局大人のバスケが面白いのは男子ということになってしまう。あの田臥(勇太)くん、小学生の頃から未だに変わらないですよ、スピード。
といって、毎年シャンソンとジャパンエナジーの試合は見ているんだけれど、日本はいつもあそこの二社での戦いになってしまうところが、何だか日本女子バスケの成長を狭めている原因であろうかと思ったり。
瞬時に攻防が入れ替わるのがいいなら、サッカーはどうなんだ?と言われると、これはちょっと違う。コートが広すぎてボール運びに時間がかかる。それが面白いのだ、と言われるかも知れないんだけど、私のような短気モンにはちと不向き。それなら、どちらかというと斜め後ろにしかパスできないラグビーの方が面白い。 コートの広さからいって、テレビ観戦的にもバスケがいいですね。 じゃあ、サッカーはまるで見ないのかと言われると、これまた困るんだけど、ヨーロッパのサッカーは好きだったり。
話がアチコチにそれていますが、スポーツって一つ一つを語りだしたらキリがないものですよね。ひと口にスポーツといって括れないものがある。 だから、水泳なら男子高校生のまるでアポロの像みたいな裸が美し・・・
で、柔道である。 快進撃が続いた。 女子の方は、横澤選手、惜しくも金は逃したが、準決勝では最後の最後にザボンに一本の逆転勝ち。粘りに粘った勝利が小気味よく、気持ちのよい一本勝ちは瞼に残る。
柔ちゃんのことは、世界柔道でも熱く語ってしまったので今回は控えめにする。 キリがない。(笑) あなたは本当に素晴らしい。 あなたが勝つと、何でかいつも涙が出てしまう。 また正座して、心臓が口から3mほど飛び出したようなバクバク感の中で、感動をいただいたのである。
柔ちゃん
2004年08月15日(日)
なんてコトをしてくれた。 涙の出るシーンでした。 あの人はいつも 勝負にあっても、その後も とってもいい顔してるんだ。
ひさびー
2004年08月14日(土)
しばらくぶりになりました。 皆さまお変わりありませんか? 私の方、昨日よりお盆やすみとなり、くてくてムードでございます。
昨日の午後、まったりと過ごしていたら、階段を昇って来る物音が聞こえました。それから廊下のクローゼットを開ける音。誰かが帰ってきたのかと思ったのですが、誰も入って来ないのですね。で、様子を見に行くとまったく誰もいないのです。ひとがいた様子もなく。あのようなリアルな物音は、この家に住んで初めて。たぶん、父が帰って来たのではないかと思ったりいたしました。今年は新盆ですし。
母のガンの状態はあまりよろしくなく、来月再々検査の結果では抗がん剤治療も始まるかも知れず、秋になるとまた忙しい日々が戻ってきそうな気配です。
私の方も、なんだか体調が思わしくなくて、おやすみしておりましたが、またボツボツ再開しようかな。っと思ったり思わなかったり。(笑)
ところで、皆さまは一日にどのくらいの時間をネットに費やされていらっしゃるでしょう。 私の場合、サイトを始めた頃は、お知り合いの方もとても少なくて、更新も掲示板への書き込みも、今よりずっとちょくちょく出来ていたのですが、4年も経つと、お近づきになってくださる方も増え、そうした皆さまのお部屋へお邪魔する、更新された物を拝読する、とそれだけでも時間がかかるようになりました。
日記等のページへ真っ先にお邪魔するのですが、更新は週に2〜3度から、ほぼ毎日のようにされていらっしゃる方のお部屋などは、やはり足繁くお邪魔しないと拝読するだけでも間に合わないとか。それにまた、ネットサーフィン中に見つけた初めての場所でのテキストなど、お読みしたり、リンクから飛んで飛んで膨大な量の過去ログを読んだりとしていると、配信するより受信する時間が圧倒的に長くなったりしています。
で、ついつい掲示板へのご挨拶もせずロムってばかりの状態になってしまいます。なんだかとっても不義理をしているような気がしなくもないのですが、その辺、皆さまどのようになさっているのでしょう。限られた時間の中で、巡回ルートが増えて、にっちもさっちも行かなくなるんだわぁ。
なのでなので、しばらく掲示板を閉じております。ああ、ご意見ご感想は勿論とても嬉しいことですので、こちらのコメント欄よりお待ちしておりますが、しばしの勝手をお許しくださいませ。
で、まだ暑い日が続きます。 夏を満喫してくださいねん♪
おせっかいをやく時
2004年08月13日(金)
銀行のATMで預金を引き出そうとしていた時のこと。その日は月末だったかそれに近い日で、ATMはそこそこに混んでいた。機械は5台あり、それぞれに人が6〜7人並ぶといった状況だ。
ようやく順番が来ていざ機械の前に立つと、前の人が忘れて行ったらしい日傘がカランとぶら下がっていた。思わず手にして振り向いたが、そこでハタと考えてしまった。前の人は、年の頃なら50代半ばくらいの主婦らしき女の人で、その人を私は何と呼び止めたものかが分からなかった。
明らかに年上の人に向かって、いくら相手が主婦らしき人でも「奥さ〜ん」などと呼ぶのは失礼かと思ったし、かといって「もしもし」なんていうのはちょっと恥ずかしい。「ちょっとちょっと」も同じくらい失礼だろうし「おばさん」だとか「おばちゃん」なんていうのはこちらもトウが立ちすぎている。「すみません」と言えばいいのかと思ったが、人というのはこういう時に後ろを意識はしていないものだ。目的を終えれば気持ちは前へと向かうから、「すみません」では気がついてもらえないだろうと思った。それはインパクトに欠ける。
ほんの一瞬の迷いがその人と私の距離を大きく開け、更にその人はずんずん歩いて行ってしまった。この時頭の中では明瞭に色々考えていたが、他の人の目には口ごもって立っている私が見えたことだろう。
仕方がないので後を追った。声をかければ振り向いてもらえそうな距離まで近づいても呼び止め方が分からない。まったく仕方がないので、隣に並んで傘を差し出し「忘れ物です」と言った。するとその人は「私のじゃありません」Σ( ̄□ ̄:)! あらま!と思っていたら、その人の前にATMの機械で用を済ませた人が走ってきて「すみません、私のです」と言って笑顔で受け取って行った。
こんな時日本語にはふさわしい言葉がないと思う。名前も知らない年長者を呼び止める時には皆さまどうしていらっしゃる??でしょう。あるいは年齢が下でも何でも、例えば異性だった場合とか色々なケースがあるでしょう。
イタリアにはとても便利な言葉があって、若い女性ならスィニョリーナだし、明らかに奥様のようであればスィニョーラだ。男性なら、スィニョーレと言えば全く失礼はないし、年長者であってもなくても問題はない。
おじさん、おばさんという言葉はあるが、それは叔父さん、叔母さんという血縁者かそれに準ずるくらい近い関係の人に使われる言葉なので、小さな子が知らない女の人をスィニョーラと言ってもちっともおかしくはないのだ。多分、お母さんとの会話で「このスィニョーラが」とか「あのスィニョーレは」とか言った場合にそれを日本語で解釈すると、私的にはこのおばちゃんが、とかあのおじちゃんが、とかいったニュアンスになる。
少年、少女というと、ラガッツォ、ラガッツァというのだが、これだってかまわない。10代くらいの少年少女を呼び止める時にそうやって呼ぶこともある。同世代でもOKである。男の子が同じくらいの男の子たちに向かって、ラガッツィ!なんていえばそれは「おい、みんな!」とか「野郎ども」とか、「おまいら!」なんて感じかな。(笑)
話がそれたが、それを戻すと。 だからそういうわけで、困ったのであった。
そして数日後、同じような状況が起る。それは買い物でレジに並んでいたときのこと。私の前にいた、やはり50代半ばくらいの男性が、レジの台に携帯電話と車のキーを置いて支払いをしていた時だ。男性の携帯電話が男性には似つかわしくないようなピンク色をしていたので、やけに目についたのと、何となくだが予感があって、そのニつから目が離せなかった。車のキーホルダーは黒い皮でヨレヨレだった。
支払いを済ませて財布を尻ポケットにねじ込みながら足早に去っていこうとする男性は、案の定その二つの品物を忘れて行った。この時私は少しも慌てず振り向きもせず、デカい声で「あー!電話がぁ〜」と叫んでみた。ふふふ。 「おおお」と言って戻って来た男性は品物を取り、何故か私に「すみません」と言って去って行った。
なんだ、簡単なことであるね。 人を呼び止めようとしなければ良いのだ。 でも何だか脳がない。
だから無題
2004年08月12日(木)
本でもネットの世界でも、誰かの書いた物を読むとその人の自己顕示欲の強さのようなものがわかる気がする。 何かがあって、何かのことを語る場合と、何かがあってそれを引き金にして自分の中身を引き出して自分のことを語る場合とは大きく違いがあると思う。
こんなことがあって、そのことはかくかくしかじか、と言う場合には、意外と書いた人の性格があからさまには書かれていない。書かれていないというより、書いている人がそれを書かない。何かの感想であったり批判であったり、一歩離れたところに書く人がいると思う。ただそれを読んでこちらがその人となりを判断するものなのだと思う。
一方で、物事よりもその事柄から過去の話であっても現在であっても、私とはこういう人だと知らず知らず落ち着くところがその部分になっている人がいる。人となりを想像にまかせるより自ら決めているような感じ。そういう人は本当に自己顕示欲の強い人なんだろうと思う。
読んでいて面白いのは前者の方で、自分というものをとりあえずここにおいておいて、チラチラと見えそうで見えないくらいの距離感にした上で書かれている方が好きだ。私はこんな人よ、こんな人よ、と赤裸々に語られていても、こちらとしては困るばかりだ。この場合の赤裸々とは、家族構成や1日の生活を詳細に書くことではなくてあくまでも内面なのだが、どうしてもナルシズムを感じてしまう。
それが良いか良くないかはわからないが、例えば「そんな自分が嫌いだ」と書かれていても、そんな自分を嫌いである自分というものが好きなのだなと思えてくる。
世に出た作家や有名人の書いたエッセイなら、ある種の興味の対象にはならなくもないし、その自己顕示欲こそが面白い場合もあるのだが、そうでない人の場合には、赤裸々に内面を披露してもらっても何だか困ってしまうのだ。だってこちらがそちらを好きでも嫌いでもない時に、そういう書かれ方は読んでいるこちらが恥ずかしい。と思うのは私だけかも知れないが。
などと、立て続けにエッセイ(書店で購入したもの)を読んだり、ネットで人の書いたものを読んでいたら唐突に思った。
そういえば、有吉佐和子という作家はほとんどと言ってもいいくらいに自分というものを語ることのない人だったと思う。それでいて、常にストーリーテラーな人であった。作家が自らを語るものは、売れ筋としてはまんざらではないだろうし、作品の出来不出来に関わらず商売にはなりやすいかも知れないが、それでもそこを何も書かない人は、最近ではほとんどいないのではないだろうか。
物を書く人といっても色々で、それはそれで良いのだが、アタシアタシアタシというのにちょっと飽きてきているかも知れない。かくいう私もここにこんな事を書いているのだが。
あたま空っぽ
2004年08月11日(水)
この前現実逃避願望について、今最も出来ないことが旅行だと書いたのだが、では最も出来ることは何かといえばやはり読書である。 ことさらココから逃げたいと思って本を読むわけではないが、よくよく考えてみると本を読んでいる間は、少なくとも考え事などしなくてすむし、物語の中に入り込んでそれなりに楽しい旅をしているような気がする。
これはどういうことなのかと考えてみると、本を読んでいる時というのは、頭の中、つまり脳は自分の活動場所ではないということだからだと思う。小説なら誰かの作った綴りをたどって物語がどうなるのかを第三者として追えばいいし、エッセイのようなものならば、それは誰かの考えた過程を反復的にたどっているだけのことで、他人に物を考えてもらっているのと同じことだ。
だからまず自分でものを考えるという面倒はいっさいしなくてよい。ものによってはぐいぐいと引き込まれて、思わず現実の問題を忘れているという場合も少なくない。そして何より全く無責任でいられる。
もっとも、集中して本を読むことすら出来ないほど何かにとらわれていたら不可能な話ではあるが。
物の書き方には個性があって、人の考えが勝手に頭の中で動き回るときに、それがあたかも自分の考えみたいにすんなりと無理なく活動できるときと、何だか相容れない何かがあって、どうしてもすんなりとはいかない、むしろ一つ一つに引っかかりながら読み進む場合とある。
他人の考えがすんなりと動き回る場合は、私自身の中の土壌が作者のそれに近いか、たまたま似ているかして、まるで目の前で話しかけられているような迫力を感じる。ずいずいと引き込まれて、あたかも自分で考えたみたいなフィット感がある。だからといって、読後に何が書かれていたのか要約しなさい、だとかテーマは何だとか、そんなことをいわれても困る。たいていはその場限り、その時はまるで自分と同化したような文章も、読み終わるとやはり人のものだったと分かるからだ。
なぜかといえば、片っ端から忘れてしまうからである。(爆)洗脳も一瞬のことかも知れない。とても頭の良い人が書いた本を、ぐいぐいと読み終わったからといって、私の頭が良くなったわけではないし、そんな気がしたとしても、私の頭は変わっていない。その私がそんな気にさせられることがあれば、それは筆者の説得力によるものだろう。
しかし、それでも何でも読書は楽しい。この数日一体何冊の本を読んだか数えてみたら、日に一冊は読んでいる。更にベッドのサイドテーブルの上にはまだ手つかずの本が数冊積んであり、そのありようをみるとワクワクしてしまう。
ただ、本というのは読んでみなければ中身は分からない。面白そうだと思って読み始めても何だか期待はずれのものもあるし、どこまでいってもつっかかるものもある。誰かが読んで面白かったと薦めてくれても、同じことだ。そういうものを引っかかりながら読んでいると、さっぱり先へ進まない。それどころか眠気を催してくるのである。読み始めると寝てしまう、また読み始めると寝てしまう。まるで入眠剤のようである。まぁそれだって、何も困ることもないのだけど。
そんな意味で、本を読む事と映画を観ることはとても似ていることである。今書いたようなことは、映画にもいえるとことだと思うのからだ。面白ければあっという間、つまらなければ寝てしまう。
だから、本を読まない人に、読書の楽しみを伝えるなら、映画を観ることと似ているといえばそれが一番近い気がする。
ただ、いつでもどこでもズボラな私にもすぐに始められるという点では、映画より読書の方が勝っているということだ。
Floating on Love
2004年08月09日(月)
ようやくこの部屋の曲をトップページから流れるようにいたしました。 曲は、この部屋のために HIGHWAY STAR+ さんが作ってくださったものです。 (あちこちの色んな曲を作っていただいて感謝です ^^;)
この部屋にはこの曲しかないと思っていたのですが、ナビがくしゃぐしゃで落ち着いて編集できずにいました。 ようやく落ち着いてその辺りを修正しました。
静かでいい曲でしょう。 『 Floating on Love 』というタイトルをつけさせていただきました。 グラスの中で氷の溶ける気配と一緒に心がスウィングするような・・・そんな大人の曲で、とてもお気に入りです。 Love は、そうですね、誰かのことを思って・・・、家族でもお友達でも恋人でも、大切な誰かを思ってゆったりと心がスウィング。
音の苦手な方には申し訳ありませんが、左上のBGM MENUをクリックしていただきますと off スイッチがありますので、そちらから消してください。
メニューにあるもう一つの曲は、これまたイメージが少し違い、『 NotFound 』、体中の力が抜けてしまうような不在感、そんな感じ。これは HIGHWAY STAR+ さんの曲と私の絵のコラボで使われたものです。
他にも沢山コラボったものがありますので、おいおいにUPできればと思います。
そろそろ夏休み、という方もいらっしゃるでしょう。 何となく日暮れが少し早まってきたような気がしますね。 今夜は風も涼しくて、久しぶりに過ごしやすい夜みたい。 あまり暑いのも困りますが、かといって秋の気配というのは少しまだ寂しい気がします。
今夜は心地よい風に吹かれておやすみなさい。
天国に一番近いストレス解消
2004年08月08日(日)
友人からのメールで、たまにはストレス解消している?というのがあった。そこでハタと私は考えた。
私にとってのストレス解消ってなんだろう・・・。趣味と呼べるものは少なくはないが、今最もストレス解消になるのは最も出来ないことだ。何かといえば旅行である。
旅行すること・・・、今ある環境から離れてまるで別な環境の中で過ごすこと。その日の朝、家を一歩出た時から始まる異次元の生活だ。
日頃の煩瑣な雑用を忘れて家事から解放される。目の前には細かなことは見えなくなり、車窓の景色は少しずつ日常から遠のいてゆく。蕾のようにはらんでいた開放感が、少しずつふくらみ初め、目的地に着く頃には体のすみずみにまで花開いたように満ち満ちている。
今まで見えていても見えなかった空の色や草花の息吹き、感じていたようでするりと通り抜けていた風の匂いを感じ、太陽が織りなす生き物のような光の色を見て、聞いたこともない鳥の声を聞く。
夜になれば見たこともない漆黒の闇。目の前にかざした手の平すらもどかしいほど見えないのに、空には満点の星がいる。生まれて初めて散りばめられた星たちを見たとき、一瞬それが何だか分からずにギョッとした。想像を遥かに超える無数の星が、まるでチリか虫の大群のように見えた。やっとそれが星だと認めると、次に来るのは感動だ。研ぎ澄まされた空(くう)の下に自分が産み落とされたというその現象に感動をする。
裸の空にはあれだけの星があるという当たり前のことを普段は気づかない。目の前からもう宇宙は始まっていて、そこにあるのは宇宙と宇宙にいる私だけだということを知る。
銀河系、森羅万象、花鳥風月、それらの全く人工とはかけ離れた自然なままの全てと同化して、五感が宇宙の一部になる。水になり光になり風になる。時間は体の中だけに流れている。
日常を忘れるということは、早くいえば現実からの脱出、潜在的に逃避願望があるのだと思う。だから、私の場合の旅行は名所旧所を訪ねて観光することではなくて、ただただそこにいることだ。パッキングされたツアーの旅行で、時間から時間、場所から場所へとベルトコンベアーの上を歩き回ることではなくて。
日々の生活が嫌だというのではないし、沢山の良いこともあるのだが、そうしたことに埋没していると良いことが見えなくなっているからかも知れない。飲み込みやすいことというのは、それほど感じていないだけですんなり飲み込んでしまうからだろう。日常を遠く離れた場所から思うと、また別な感性が湧きおこるのがわかる。
私にとってそうした時間を過ごすことは、まるで魂の洗濯だ。都会の雑踏の中で時間に追われ、人と人との間で波乗りのような生活をしていると、大自然というかけ離れた環境はもっとも遠い世界なのである。
かといって、ずっとその場所に留まって生活していけるのかというとそれは違う。そうした場所はたまに行くから休まるのであって、結局のところはその中で暮らすことは出来ないと思う。いくら車を走らせても、行けども行けども外灯もない山の道、探しても探しても全く見当たらないコンビニやATM。そうしたちっぽけなことが不便に感じ始めると、やはり暮らしというのはここではないなと白旗をあげてしまうのである。
だから数日過ごして帰って来る頃、高速道路の新山下の辺りでみなとみらい辺りの高く林立したビルのネオンサインを見ると、今度は帰って来たとホッとする。勝手なものだが、帰る場所はここしかないなとそう思う。行く場所があって帰る場所がある、何と幸せなことだとも思う。何もない場所で数日間過ごすことで体の中が元始に戻り、細胞の隅々にまで天然の野生を補給する。するとまるで生まれ変わったように、また日常に戻って行こうとすんなりと思えるのである。行く前とは違う自分になっているのがよくわかる。
ここしばらく、そうした旅行が出来ないので、今一番の憧れるストレス解消である。もし、何もかも安心して家を空けることが出来たら、何をおいても脱出をする。一体いつになるのかは分からないけれど、今の私はその時を渇望してやまない。
まぁ待て(笑)
2004年08月07日(土)
今日は仕事でしたので、やっと週末。 週の後半に入ると、だんだん疲れが出てきて、なかなか更新が出来ませんでした。
何だかこうやることが多くて、目まぐるしく動き回る世間で、私1人スローモーションで動いているのじゃないかと思うくらい、自分がのろまで歯がゆく感じる1週間でした。
もし今、神様が欲しいものを一つだけあげると言われたら、2つ返事で『疲れを知らない体』と答えます。 10代の終わりの頃のように、ガッコから帰って着替えて支度して、自由が丘へ行って六本木へ行って、その後新宿へ行って更に中野まで歩いて、そしてまた翌日はガッコへ行ってもへっちゃら!というくらい、移動なんかものともせず、疲れなんかこれっぽっちもない、パワー全開のあのころみたいに・・・。 ここで遠い目になる。(笑) そんな体が欲しいよ〜って気分です♪
まぁ、今日のところはとにかくちょっと落ち着いてぇ、一息ついてぇ、それから更新いたします。 (インターバルが長いんだけど、とほほ)
今夜はサッカーもあることですし、皆さま素敵な週末の夜を♪
あ、そうそう、例の掲示板、ハマっていただいてありがとうございます。 あれは皆さまの意外なキャラが覗けて、それはもう笑わせていただいております。
ん?って人が、おお?ってなことを書く板。 それを見てぃひひひと喜ぶこの私。 そうするともう
あら、チョットのつもりが長くなっちゃった。
魂の換気
2004年08月02日(月)
先日父のことを書いたとき、頭の中が白くなっていた。話を聞いて1人になってからしばらくの間、理性と感情が一致せずに、自分が何を考えているのか、何を感じているのかよくわからなかった。理性と感情がバラバラで、私という1人の人間の中には、言葉にならない分離したいくつものコマ切れな核のようなものが点在して、それは流れたり飛んだり、サブリミナルのように一時も静止することがなく、自分のことなのにひとつとしてとらえることが出来なかった。それは動揺というものかも知れないと今思う。
ネットを落としてからしばらくの間、何だか胸が苦しいような、つまったような、動悸はしないものの重苦しい圧迫感があって、それをどうしてよいのか分からずに、友達に電話をした。もうずい分長い付き合いの女友達は、お互いに何かあれば会ったり電話で話したりする。こんな時に自然と電話をかけてしまう友達である。
話を聞いた彼女は、 「何と言っていいか、言葉がなくてごめんね。」と言いい、しばらく色々なことを話したが、私が 「さっきから胸が重苦しくて何だかよく分からないんだけど、血圧でも上がったのかなぁ?だとしたら、普段低血圧の私は今正常か?」などとというと 「・・・、何かさぁ、もっと言っていいんだよ、ほら、何かさぁ・・・」ともどかしげに言った。 「もっと? う〜ん、どういうことだろう。 相手が病気だから、何を言っても仕方のないことなんだけど、もっとねぇ、何か話し足りないかな」 「そうじゃなくてさぁ、ほら、もっと気持ちとかさ、言いたいことあるんじゃない?」 「それがわからないのよ・・、何を思っているのかどうしたいのか、正直に言うと逃避願望が大きいかも知れない(笑)」 「うん、そうそう、そういうの。逃げ出したいとか、ほら、もう嫌だとかさ、そういうのよ。そういうのどんどん言っていいんだからね」 「うん、実はさっきからこの胸が重苦しいのが何だか分からなくて、ちょっと嫌なんだけど、私まで病気になるわけに行かないし、ここで心臓発作でも起したら洒落にもなんない。 この胸の重たいのってなんだろう・・・。もしかして泣いたら治るのかな? 私、もしかしたらさっきから泣きたいのか・・・」
言葉が終わらないうちにこみ上げてきた。しばらく言葉にならずにしゃくりあげてしまった。それは普段と変わらない、息を吸って吐いての呼吸のくりかえしに過ぎないのだが、大きく大きく、とても大きくて、吐く息も吸う息も、今までしていた呼吸とは別の動作だった。いつもの生きるための呼吸じゃなくて、体の中にある別の深いところに触れるもの。そこに新しい空気を送り込んで、そして澱んだ空気を追い出すもの。ほんのわずかな時間だが、その繰り返しが気持ちよくて、声にならない声とともに何度も繰り返していた。一度目に大きくしゃくりあげた時、明らかに胸の中がスゥーっと軽くなるのが分かった。
友達は、しばらく黙っていたが、そのうち1人で話し始めた。私が相槌を打っても打たなくても、静かに静かに話していた。何を言ってくれたのか、今はもう思い出せない。ただ静かな低い声が心地よくて、とにかく私はしゃくっていた。
しばらくすると、今度は笑いがこみ上げて 「あはははは! 私、泣いてるんじゃんっ!あ〜、気持ち良かった!」そんな言葉が出てしまった。さっきまで、何度深呼吸をしても取れなかった胸の重苦しさが、嘘のようになくなっていた。溜まりに溜まったものが、綺麗に追い出されたような気がした。
「あなたはいつもそうやって、どんな時にでも明るく話すから、聞いてるこちらとしては、そりゃぁメソメソされるよりは楽だけどね(笑)、でもさ、泣くって大事だよ、そういう時もあるじゃない。今まで一度も見た事がないよ」
そういえば、10年と少し前に私は癌宣告をうけたことがあった。 読んでいる皆さんが心配するといけないので、結果を先に書いておくと、幸いなことに手術の結果、それは良性のものだと分かり、腫瘍の一部を取り除いただけで今日に至るが(*もう、貴女の健康は私が太鼓判を押します*とまで医師に言われたのです)、宣告を受けた時も取り乱さず、その後も一度も人前で泣かず、後で彼女から 「泣いてくれたら良かったのに、少しも取り乱さないのが辛かったわよ。勝手なものだけどさ。(笑)」と言われていた。
何かこう、聞いた方が困るだろうなと思うとそれが出来ない。人に心配をかけることがどれほど辛いことかは病気になった時にとことん身に沁みたので、心配させるというのが嫌だ。心配ごとは、する方も辛いがさせる方も辛い。でも、そういう頑張りが自分を苦しくしてしまうなら、少しは解いてもいいのかも知れないと今度は思った。
事情を知る友達や、職場の人、回りの誰もが、第一に私の体を気遣ってくれる。ネットを通じて知り合った皆さんも、同じく体を気遣ってくださる。 そして、誰も私に『頑張って』とは言わない。 今は、それが一番ありがたいと思う。
気分転換に
2004年08月01日(日)
何かこう、ぱぁぁぁ〜!!!っとしたことはないかな?と(笑)
遊び感覚で新しい掲示板を作ってみました。 一つは投稿型の掲示板です。 50テキストや、他のメニューからお題を提供してあります。 それぞれについて、同じように何かを書いていただこうという趣旨です。 こちらはレスはつきませんが、良かったら遊んで行ってください。 皆さまのご意見お待ちしています。
それからもう一つ♪ 何だかお馬鹿な掲示板♪(笑) だってお馬鹿な事を書いても目立たない。 シリアスなことを書いてもシリアスになれない。
当ホテル自慢のバーでございます。 堅苦しいことは抜きにして、愚痴でも何でも。(笑) こちらもどうぞ、お遊びください。
↑このDiary、1日に一つしか更新出来ないので、日付が時々狂います これは、7月31日の分です♪
Copyright©*momo* 2001-2006 (Prison Hotel)
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