The Five Senses
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| 2007年06月20日(水) |
My Childhood |
5時半起床。 コーンフレークにヨーグルト、ソイミルク、レーズン。緑茶。
朝からA Day In New York, Ryuichi Sakamotoのボッサを流し、ベッドに寝転がってドリアンさんの本の続きを読む。 昨日の寄る、寝る前に読むが怖くて1、2ページで断念。 結構読みづらいのだが、チャプターの終わりもあり、なかなか心に響く言葉がちらほら。
最初のチャプターを読み終わったのだが、国宝にもなっている大仏が歩き出し、街は大混乱に陥り、 その国の政府がとった手段は大仏を爆破する手段。神聖なものを爆破すると言う破壊的な行動にショックを受ける。 そして、その大仏の中に飛び込んだ、社会的にはみ出ものとレーベルを張られた17歳の修行僧が 歩く巨大な大仏から外を見たものは、無数の小さな光。 それは、その歩く大仏を見ようとする人々が一目見ようと追いかけ、それを照らすための懐中電灯の光だった。 世間から白い目で見られていた二人の少年の友情?つながりをを語っているものだが、 気持ち悪いぐらいにグロテスクな描写の中に何か美しいものを見る。 不思議な世界がこの本には広がっている。 次のチャプター、”嗅ぎ屋”の途中を今読んでいるが、これも明日の朝まで読まない。 怖いから。
色々と子供の頃のことを思い起こす。 私はとても神秘的なことや不思議なことが大好きだった。 ミヒャエル エンデのようなファンタジーを読みまくり、週に一、二回は図書館へ出かけ、読みふける日々。 “果てしない物語”を読んだ時はその壮大なる世界にはまり、ドッヂボールもサッカーもそっちのけで放課後の日が沈みかけ、誰もいない教室で一人で読みふけっていたくらいだ。 所々にあるその挿絵も美しく、私の気持ちを駆り立て、影響を与えた。 私の誕生日に何よりも欲しかったのがその本だった。
多分それらに興味を持ったのは私の育った環境だろう。 家の前に広がる森林に一人で日が沈まルカ沈まらないかぐらいの時間に出かけ、 そこで見る、昼間とは違った木々を見、それぞれに精霊が宿っているような感覚に教われる。 人のてのように、指のように細い枝を繰り出す木、ゴーンと太い幹を保ち、不格好なまでも高くゴツゴツとしたこぶを持つ木。。。 暗くなり始めた頃に、その木々の姿が急に怖くなって走って家に帰るのだ。
ある時は、崖のその草むらの上で木々のこすれる音を聞き、林の中から聞こえる鳥の声、 近くでぶんぶんと通り過ぎる虫の音を聴きながら流れる雲を見、その上にまぶしく光る太陽を見るのだ。 夜には歩きながらいつも星空を見ていた。
私はいつも光のなかになにかあるのかと思い、目を細めてようく見るくせがあった。 それは蛍光灯にしても、ろうそくの光にしても、キャンプの燃え盛る炎、太陽に然り、 まぶしくて普通に直視できないものの中身、その光を放つ基を見てみたかったのだ。
育った環境がとても良かった。 家の目の前には草で覆われた崖があり、その崖の下の小さい木に覆われた小さな、小さな道を抜けるととても済んだ川が流れる場所に出る。 そこで毎年時期になると行き、そこで遊んだりその川に沿った山道を歩けるところまで歩いたり、 横道にそれて歩いていったり、古くて半分崩れた木造の橋の近くで足を水につけたりするのだ。 その風景は、いつ見ても新鮮で、心を打たれる。 汚れのない緑と土の匂いが私を受け入れ、拒否する。
中学校に入ってからは私は新しい家に引っ越し、そこに行くのも年にあるかないかになり、 いつの間にか崖の下は鮭の養殖場の大きなプラントが立ち一般の一は入れないように鉄の網柵が張られていた。
悲しく、悔しかった。人間へ対して、大人へ対しての怒りさえもあった。
いつも擦り傷を作ったり、泥にまみれて家に帰っていった、あの頃が私は大好きだ。
ブラジルのNYのような、白いパンツ、タンク、フラットサンダル、真っ白な出で立ちで出かける。 昼にサバの味噌煮、米。スターバックスコーヒー。 夜にうこんピル、ビール2缶、スコッチ。
Caetanoのボッサを聴きながら。
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