山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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2013年03月21日(木) 大黒舞その2

 大黒舞といえば
「秋の方から福大黒が舞い込んだナー♪」
と女性のハイトーンで唄われることの多い民謡としての「秋田大黒舞」が有名なようです。それに合わせて大黒に扮した人が踊ります。

 えんぶりの演目としての南部の大黒舞は二通りあるようで、一つは子どもたちが伴奏付きで踊っているように、秋田大黒舞と同じ流れのもの。もう一つは私たちの無伴奏で「掛け合い」をしながら進行する踊りです。見たところどうも我々の方がマイナーなようです。

 YouTubeで大黒舞を検索しているうちに、秋田には全く別の大黒舞があったことを知りました。かつて米代川流域の集落に修験者らが伝えた「番楽」の演目の大黒舞が存在したということです。これは秋田大黒舞とは全く異なるものです。今ではほとんど伝える集落もないとか。この辺にも「山伏神楽」が伝わっていますが、演目に大黒舞があるのかは知りません。

 中国との実り多い交流は遣隋使に始まるという。その第2回遣隋使において、聖徳太子が隋の煬帝に送ったという国書に書かれた
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや。」
というフレーズがあまりにも有名だ。煬帝は無礼だと激怒したというが、この「日出づる処」「日没する処」は仏典の「大智度論」に使われている表現を借用したもので「東」「西」の文飾に過ぎず、特に優劣の意味は込められてはいないのだそうだ。これは知らなかった。

 筆者は最近中国で発見された「井真成」という遣唐留学生の墓誌から、彼らが国家の使節として何を唐に持ち込み、何を日本に伝えようとしたのか、歴史を読み解いていく。

 中でも興味を引いたのは、唐文化を選択して受容したということである。仏教を積極的に受け入れたが、道教の全面的な受け入れは拒んだ。また、官僚機構に宦官を置かなかった。

 地理的に離れているという環境が我が国独自の判断で唐の文化を選び取ることが可能だったという。9世紀第20次遣唐使は、大使の菅原道真の上奏により停止されるが、その頃までには唐文化はだいぶ吸収されていたそうだ。


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