手慰みに絵を描く。落書きと言ったほうが正しいか、メモ用紙(ミスコピーを切って束ねたもの、または、ハガキよりひと回り小さい既成のもの)に描く。罫線のある落書きノートでも同様、結果を考えず気楽に描くと、比較的良い結果を生むようだ。 気に入ったのが描けたので、コピーしてマーカーで色を塗って試行錯誤。線を単色カラーでコピーして、1色の濃淡(青系とピンク系の2パターン)で塗ってみた。どうにもうまくいかず、結局は3回目に、普通に塗ったのが一番ましだった。変わったことをしようとすると、技術力とセンスが問われる。基本を修めてもいないのだから、曲芸飛行は無理と言うものだ。 色パターンを変えるのなんて、PC上でソフトを使えば簡単にできるはずだけれど、ソフトの使い方に習熟する時間と熱意がない。
なにかを練習し始めて、少し時間が経ってから振り返ると、以前には分からなかったことが理解できることがある。8月頃に、水泳とスキンダイビングとスキューバダイビングの呼吸コントロールは全部違っていて混乱する、と書いている。だけど実はひとつの技術のバリエーションであって、呼吸を意識的に制御する、そのパターンが違うだけなのではないかと、あるとき感じた。 そういう、「なにかを得た」という感触は長続きせず、練習をさぼっているあいだに消え去ってしまうことも多い。枯れた技術が身体に叩き込まれるまで練習すれば忘れないのだ。そのあたり、スポーツも表現手段も同じなんだろう。
カキの入ったクリームスパを食べる。あまり海産物を好んで食べることはしなかった(むしろ敬遠していた)が、最近は機会があれば食べるし、少しは美味しいと感じるようになった。嗜好も味覚も変わってゆくものだ。 努力や練習の結果であったり、意識しないなにものかの結果であったり、ものの感じかたひとつとっても、変わらないものはない。それを容認する自分と、すこしばかり寂しく思う自分がいる。
|