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■ 孤独との付き合い方
ここで言う「孤独」とは、もちろん「孤独感」とは異質のものである。 最近、わたしはとても上手に孤独と付き合っている、と感じる。
友や恋人や家族といるとき、常に孤独を切望している。 なのに、突然ぽつんと孤独に立たされると、その淋しさに絶望する。 しかし孤独は慣れてくるものだ。ある時間をやり過ごせば、孤独でいることの 居心地よさに安堵する。定位置に戻る、というか、空っぽになる、というか。 注意深くなるし、肌感覚が研ぎ澄まされてくる。なにせ、ひとり、ですもの。
さっき、ベランダに出て煙草を吸った。 狂気じみた陽気な気候が正常に戻ったので、フリースを羽織って夜の中へ出る。 片手にコーヒーの入ったマグを、もう片手に水を入れた透明な瓶ビールを持って。 曇っているので明るい夜だ。春の夜の空気は冷たい。桜も散って冷静な夜の気配。
煙草の先の赤い光を、水を入れた透明なビンに落とす。 ぱっと散る赤い色は、夏の日の線香花火を思い出させる。
蛍族。母は愛煙家の父や兄をそう呼んだ。 実家は(東京の私の部屋も)禁煙なので、煙草を吸う者は戸外へ迫害される。 雪の日。父は黒い傘をさして、庭先で煙草を吸っていた。 そんな孤独な父の姿を自分に重ねてしまう。彼もまた、孤独な人間だった。
線香花火も蛍も煙草の火も、刹那的な光でしかない。 個人の人生もまた、壮大な時間的歴史体系から眺めると一瞬の光なのだろう。 孤独と、闇に浮かぶ光は、孤独感を喚起するという点で、やはり似ている気がする。
2002年04月10日(水)
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