月のシズク
mamico



 孤独との付き合い方

ここで言う「孤独」とは、もちろん「孤独感」とは異質のものである。
最近、わたしはとても上手に孤独と付き合っている、と感じる。

友や恋人や家族といるとき、常に孤独を切望している。
なのに、突然ぽつんと孤独に立たされると、その淋しさに絶望する。
しかし孤独は慣れてくるものだ。ある時間をやり過ごせば、孤独でいることの
居心地よさに安堵する。定位置に戻る、というか、空っぽになる、というか。
注意深くなるし、肌感覚が研ぎ澄まされてくる。なにせ、ひとり、ですもの。

さっき、ベランダに出て煙草を吸った。
狂気じみた陽気な気候が正常に戻ったので、フリースを羽織って夜の中へ出る。
片手にコーヒーの入ったマグを、もう片手に水を入れた透明な瓶ビールを持って。
曇っているので明るい夜だ。春の夜の空気は冷たい。桜も散って冷静な夜の気配。

煙草の先の赤い光を、水を入れた透明なビンに落とす。
ぱっと散る赤い色は、夏の日の線香花火を思い出させる。

蛍族。母は愛煙家の父や兄をそう呼んだ。
実家は(東京の私の部屋も)禁煙なので、煙草を吸う者は戸外へ迫害される。
雪の日。父は黒い傘をさして、庭先で煙草を吸っていた。
そんな孤独な父の姿を自分に重ねてしまう。彼もまた、孤独な人間だった。

線香花火も蛍も煙草の火も、刹那的な光でしかない。
個人の人生もまた、壮大な時間的歴史体系から眺めると一瞬の光なのだろう。
孤独と、闇に浮かぶ光は、孤独感を喚起するという点で、やはり似ている気がする。



2002年04月10日(水)
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