月のシズク
mamico



 B.Oなんてブッ飛ばせ!

日テレさんでやっていた『千と千尋の神隠し』を観た。
親切なトモダチが「緊急連絡」と銘打って、「8時半から拡大版でやるって!
急いで帰るべしっ」とメイルをくれ、すっかりその気になってスタンバイ。

・・・いやはや(何がだっ!)
これ、めちゃくちゃオモシロイじゃん。
いやはや(失語症気味)

宮崎駿作品は、映像も台詞も(どんなにグロテスクな容姿の)登場人物も、
いつのまにか好きにならされてしまいますね。観る者は、千の通過してきた
時空に連れて行かれ、同じ体験をし、同じ痛みや、喜びを体感する。
そして、最後に訪れる、ある種、ノスタルジックな味わい。

その理由は、宮崎作品はあくまで東洋的な精神世界を扱っているからだろう。
特に今回の『千と千尋〜』ではそう感じた。この作品は、善/悪、敵/味方、
白/黒、天国/地獄、のどちらかに荷担するという西洋的な思考の基盤である
二項対立(Binary Opposition)の法則に当てはまらない。

意地悪ばかりする「ゆばばあ」も、最後には千に父母を返してやる。
味方だと思っていたハクが、実は盗みを働かしていたことが発覚する。
皆、自分の心に善しきものと、悪しきものが内在していることを知っている。
それらは「在るモノ」として対処してゆく。つまり、皆、人間ぽいのだ。
その人間ぽさに、私たちは郷愁を憶えるのかもしれない。

神様の温泉宿、という発想が気に入った。
それも一神教でなく、あらゆる形相の、あらゆる種類の万物の神。
神様はたくさんいるのに、誰も千を助けない。助けないどころか、「カオナシ」
が暴威を振るっても、温泉宿の従業員たちと同様に、「触らぬ神にたたりなし」
という顔をしている。救い主としての西洋的な神ではないのだ。

さてさて、宮崎駿監督。次回作を制作中だとか。
こりゃまた楽しみですね。ジブリ美術館、ご近所だし一度伺わねば。

2003年01月24日(金)
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