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■ B.Oなんてブッ飛ばせ!
日テレさんでやっていた『千と千尋の神隠し』を観た。 親切なトモダチが「緊急連絡」と銘打って、「8時半から拡大版でやるって! 急いで帰るべしっ」とメイルをくれ、すっかりその気になってスタンバイ。
・・・いやはや(何がだっ!) これ、めちゃくちゃオモシロイじゃん。 いやはや(失語症気味)
宮崎駿作品は、映像も台詞も(どんなにグロテスクな容姿の)登場人物も、 いつのまにか好きにならされてしまいますね。観る者は、千の通過してきた 時空に連れて行かれ、同じ体験をし、同じ痛みや、喜びを体感する。 そして、最後に訪れる、ある種、ノスタルジックな味わい。
その理由は、宮崎作品はあくまで東洋的な精神世界を扱っているからだろう。 特に今回の『千と千尋〜』ではそう感じた。この作品は、善/悪、敵/味方、 白/黒、天国/地獄、のどちらかに荷担するという西洋的な思考の基盤である 二項対立(Binary Opposition)の法則に当てはまらない。
意地悪ばかりする「ゆばばあ」も、最後には千に父母を返してやる。 味方だと思っていたハクが、実は盗みを働かしていたことが発覚する。 皆、自分の心に善しきものと、悪しきものが内在していることを知っている。 それらは「在るモノ」として対処してゆく。つまり、皆、人間ぽいのだ。 その人間ぽさに、私たちは郷愁を憶えるのかもしれない。
神様の温泉宿、という発想が気に入った。 それも一神教でなく、あらゆる形相の、あらゆる種類の万物の神。 神様はたくさんいるのに、誰も千を助けない。助けないどころか、「カオナシ」 が暴威を振るっても、温泉宿の従業員たちと同様に、「触らぬ神にたたりなし」 という顔をしている。救い主としての西洋的な神ではないのだ。
さてさて、宮崎駿監督。次回作を制作中だとか。 こりゃまた楽しみですね。ジブリ美術館、ご近所だし一度伺わねば。
2003年01月24日(金)
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