月のシズク
mamico



 ノクターン

ごんごんうなるエレベーターから降りて、非常灯のついたガラスのドアから
外へ出ると、夜露をたっぷり含んだしめっぽい空気が肌にまとわりついてきた。

今日は一日中、細かい雨がしくしくと降っていた。
夜になって雨は上がったのに、白っぽい靄が辺りを覆っていて、
さほど進まないうちに、服がしっとりと濡れてしまった。

私は、立派な欅並木が両手を伸ばし「とうりゃんせ」する長い腕のはるか下を、
ぼんやりとした白い靄の中を、夜がすっかり音を吸い込んでしまった世界を
ゆっくりと通過して、うちへ帰る。守衛さんが、頷くようにして挨拶してくれた。

うちに帰ってすぐに、バスタブにお湯をはった。
お湯がたまるまで、ベランダに出て煙草をすう。

寝室からは、マリア・ジョン・ピリスが弾く、ショパンの夜想曲全集が
大きめの音で流れている。こんな夜は、いつだってピアノが聴きたくなる。
ひとの声でも、幾重にも重なったシンフォニーでもなく、いつの間にか
心に染み入ってくるピアノの音が、聴きたくなる。

お風呂には、ピリスのピアノを聴きながら入った。
浴室のドアを少しだけ開けて、寝室から流れる音を招き入れるようにしたのだ。
左手、低音部の和声的な伴奏の上に、右手のロマンティックな旋律が歌いのり
哀しいような、淋しいような、せつない気持ちにさせられる。

2枚組、全21曲のノクターンを、何度も何度もくり返し聴いた。
取り立てて何があったわけでもないのに、心だけが小波立っている夜。
どんどん心が鎮まってゆくのを確認し、私はまた、少しだけ安心する。

2003年05月19日(月)
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