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2002年03月27日(水) |
a beautiful life |
結局、普遍的な意味での生きる意味だとか人生の価値だかいうものはない。 自分が「意味がある」「価値がある」と「定義」したものが、そうなる。意味なんて、価値なんて、その程度のこと。数学(算数)はまず「1+1=2」などの「約束事」を定義したところから始まる。それと似たようなものかもしれない。もっとも、数学と「現実」は決定的に違うところもあるけど。数学は完全に客観的な論理によって構成された(構成しようとする)世界。まあ、「現実」にはありえないからこそ、人間は数学という学問を創り出したのかもしれない。などと、「夢」を見てみるのも、悪くはあるまい。人間同士が何を話し合っても、主観と主観のぶつかりあいになってしまう。だからこそ面白いという側面もあるけど、そんな不確かなもので飛行機を飛ばしたりはできない。すぐに墜落しちゃう。だから、数学がある。「数学的証明」という手法の発見は、大きな達成だと思う。「現実=主観」に、「客観」を持ち込んだのだ。主観的な視界しか持たない人間が「客観」を創り上げたというのは奇妙な気もするが。ともかく、そのことによって、人間は普段は主観的生を生きながら、ときに客観的生の世界(数学)に遊びに行けるようになった(擬似的にせよ)。いつか終わる夢だとわかりながら、そこで子供が砂遊びをするみたいに遊んでいる。蟻が集まってくるのを観察している。砂場にいる誰かが言う。 「こういうのって、楽しいよね」 その続きが語られることはない。なぜ楽しいのか。楽しいとは何か。それは、問わない。それを言葉にしてしまうと、すべてが「台無し」になってしまうことを砂場にいるみんなは知っているからだ。砂のお城は踏み潰されるしかないことを知っているからだ。
(踏み潰してもいいんじゃない? また、代わりのおもちゃを見つけるだけだよ。僕らはそういうふうにして生きている。何かを消費しつづけて生きている)
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