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他人を完全に理解するのは無理だし、誰かに自分を完全に理解してもらうことも不可能だ。 だから、別に、そういうことを望みはしない。 完全な理解など存在しない、完璧な文章がないように。 ただ、できるだけ、より多く、理解し理解されたいと思う相手がいる。 それが、リアルな意味での友人であったり、愛する相手であったりする。 それと同時に、リアルではない友人―知り合い、も必要だ。 それは友人になる手前の段階としての知り合いであるときもあれば、 いつまでも知り合いのままだろうという相手もいる。 全員と友人になれるわけではないし、愛することも愛されることもできない。 それは当たり前のことなのだ、別に不幸でもなんでもない。 そういうことを肯定した上で生きていくのだ。 だからこそ、人との出会い、関係が面白いと感じる瞬間がある。 もしもあらゆる人があなたを愛してくれたなら、あなたは幸せを感じることがあるだろうか?
別にこのことに限らず、人間は何かが欠けているから生きていけるのだと思う。 何も欠けていなければ、その欠片を探そうともがく必要もないし、それを手にいれたいと思う必要もない。 そのような欠片を、ある人は仕事に見出し、ある人は家庭に見出し、ある人は思考に見出す。 別に何でもいいのだ、生きていくモチベーションを得られれば、自分が生きていると感じる瞬間を得ることができれば。それが自分の生きる道だと、自己規定するだけだ。 それはとても安心することだし、何も悪くない。 もし生きる意味ということを真剣に考えれば、そんなものはどこにもないという結論になってしまう。だから、何かしらの自分のルールを決めて、それに従いゲームを楽しむように生きていく、つまりそのルールとは「価値観」と呼ばれるものだ。 たとえばサッカーはゴールにボールを入れた数が多いほうが勝つし、勝てば選手や監督、ファンは喜ぶが、ボールをゴールに入れること自体には何の意味もない。 ただそのようにルールを決めただけのことだ。 決めただけのことだが、それで人は十分に熱中することができる、楽しむことができる、それでいい、そのためにルールが存在するのだから。
俺だって、自分なりのルールを定めて生きている。 それは他の誰かのルールと完全に一致することはありえない、だから完全な理解がない。 でも、少しずつ、あるいは全くルールが違う人間がいるからこそ、他人に興味を持つことができるのだろうという気もする。 別に真実がどうだかは知らないが、そう思いたいのだ、俺自身が。 それはつまり、完全な理解の不可能性を肯定的に認めたいということなのだ……と、思う。
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