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この日記では文章を引用することが多いが、引用した文章を振り返ると、引用が多い作家(作家でなく映画などからの引用の場合もたまにあるけど、とりあえずここでは作家)でも今は読んでいないということがある。理由としては、引用が多いということはそれだけその作家の本を読んだということであり、まだ読んでいない本の絶対数がそもそも少ない、ということもあるだろうし、また、単純に「飽きた」ということもあるだろうし、良い作品を書く才能が作家に枯渇してしまった、あるいは俺とは合わない方向性へと変わった、つまり新作を読む気にならない、ということも考えられる。もしくは、その作家の絶対的な位置は変わっていないが、他にもっと読みたい本があって、相対的に読まなくなる、ということも。 ただ、理由がどれであれ、かつてその作家が好きだった(多くの作品を読んだのだから、きっと好きだったのだろう)という事実は変わらなくて、それは、もし仮に今から振り返って「しょうもないなあ」と思うような作品さえあったとしても、やはり事実として変わらない。その作品を読んでいるからこそ、「しょうもないなあ」と今思うような俺になっているのかもしれないし、その作品でその当時に受けた影響の結果が今の俺なのだ。まあ、影響といっても、影響を受けたと意識するほどの作品はそんなにいくつもあるわけでないけれど(無意識に蓄積している影響なら、多くの作品からあるだろうけれど)。
ここに引用している文章には、言葉を代弁させるという役割のものも多い。 自分では上手く言葉にはできない思考(しかし思考としてはすでに存在している)を、ある作家がある作品内で言葉にしているのを発見して、それを書き留めていたものを、引用する。 中には、書かれている内容そのものが自分には新しかった、という引用も、もちろんある。 でも、その区別は時間が経つにつれだんだんと曖昧になる。 後になって振り返ると、そのような新しいものも、今の俺の血肉となっているからだ。
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