ふうこの英国留学日記-その後

2003年03月06日(木) Shoah ショアー 想像力についての考察

先週ショアーを観たと書いたが、今日の授業でショアーについてのディスカッションがあって、いろいろなるほどと思ったことがあった。

ショアーがドキュメンタリーの手法として優れている理由として、
ナレショーン、音楽、古い写真、映像などが一切加えられず、
実際に監督のランズマン彼自身がが会った生存者たちの証言を淡々と
記録しているということが挙げられる。

証言者に対するインタビューの仕方や質問、そして彼ら証言を引き出すための、記憶の扉を開ける引き金となる何か、例えば場所や状況などの
与え方が、自然な流れに見えながらも、話し手の証言者と聞き手の観客を想像の中の過去へと引き戻す。残酷な写真や、実証証拠無しに、装飾なしに語られる証言者の言葉は私たちの頭の中でイメージを結んでいく。

歴史の本に語られているホロコーストの、いつ、どこで、だれが、どれくらいの人を殺したか?というような情報は、この映画が与えてくれるような現実感を私たちに呼び起こさない。フォーマルに語られる「歴史」ではなく、個人の経験の語りとしての真実性がここにあるように感じた。それは私たち個人の生の経験と結びつき、安易に感情に訴えることを避けながらも、そのイメージは心に深く沁みこんでくる。

ショアーのエンディングにはアウシュビッツのゲートの白黒写真が映し出されるが、カメラはその中には入らない。ただ、そのゲートの中で何が実際にあったか?その写真は想像を促すだけだ。これが私にとってはとても恐ろしかった。

彼のこの手法は人間の想像力と記憶力よってはじめて効果を発揮する。
想像力を喚起させるということほど、強いメッセージを伝える手法は無いのかもしれない。

私が子供の頃、一番恐れていたのはは、「ナルニア国ものがたり」に出てくる、想像した恐ろしいものが実際に現れるという逸話だった。挿絵に描かれたどんなおそろしげな怪物よりも、自分が想像しうる限りの恐ろしいものが目に見える形になってしまうというのは、逃げることができない。想像してはいけないと思うほど、頭は働き、どんどん考えてしまう。人は想像することを制御することはなかなかできないものだ。

想像力は人が世界を認識し、生存しようとするために必要な、人類がもちうる偉大な能力のひとつだと思う。誰でも自分が経験していないことはわからない。ただ想像することができるだけだ。と同時に、想像力は諸刃の剣で、それによって人は救われもするが、苦しみつづけることもある。
事実と想像というのは、一見正反対のことのように見えるので、ドキュメンタリーのもちえる事実性アピールするために想像力にたよるというのは、矛盾しているようにみえるかもしれない。しかし、事実を理解するために想像力は不可欠なのだ。
想像力の介在しないところで、何かを伝えるということ、理解するということは不可能なのだと思う。
こういう意味で、翻訳作業というのは想像力に頼ることが大きい、プロセスなのだなと。。。自然と頭の中で翻訳のことに結びついた。

ちなみにショアーの監督のランズマンはこう言っている。
「ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策は
今日伝説的・神話的次元の知識の対象になってしまっている
伝説に思い出を対置しても、伝説を打ち破ることはできない
伝説に止めを刺すためにはただ伝説を、
できるならば、想像を超える現在と伝説の源泉ともなっている現在とを
突き合わせる方法しかない
そして、そこに至る唯一のやり方とは、過去を現在としてよみがえらせ、
過去を非時間的なアクチュアリテ(現代性)の中に復元することである」



 < 過去  INDEX  未来 >


ふうこ [MAIL]

My追加