2003年04月03日(木) |
Bellissimo Italia! ドラマティック・イタリ- |
今朝ジェノヴァを出発してイタリアから帰ってきました。 行く前は勉強も進まなくてノイローゼのようになっていて、イタリアに行ってる場合じゃないよ。それに初めてのイタリア1人旅だし、寝不足でぼけっとしてるし、もしかしたら、なんかひどい目にあって無事に帰ってこれないんじゃないか?くらいにネガティブな予測一杯の旅行だったのだけれど。。。。
世にも素晴らしい旅行だった。今回の旅はたった5日間だったけれど、初めて姉と一緒にベニスに行ったとき、またはそれ以上に私の精神に影響を与えると思う。 海・太陽・空・食べもの・そして旅で出会った人々。案内してくれたアルベルト。 何もかもが本当に印象深かった。
イタリアの空気は私に活力を与える。イタリアにいると人生が美しいことを思い知らされる。そして、そこには深い翳りがあることも。イタリアの空気は生きることの限りない喜びと、失われたもの、失われつつあるものの悲哀をいつも湛えている。
私が帰るという昨日の夕方、私とアルベルトは初めて2人だけでバーで飲んだ。私はアルベルトに言った。 「イタリアで見るあなたはとても生き生きしていてるね」 「そりゃそうだよ。ここは僕の生きてきた場所だもの。僕はこの街が大好きだしね。」 「いいね。そういうふうに思えるって」 「ふうこは自分の(生まれ育った)場所を離れることができると思う? 僕にはできない。僕はイタリアを愛しすぎてる。ここから長い間離れてずっと暮らすことは想像できないよ」 私はすぐには答えられなかった。私はイギリスにいても彼のように、ああイタリアに早く帰りたい−と思うほど、日本の生活を恋しがることはないように思った。 でも、私は私なりに日本を愛している。日本文化は私のバックボーンになっている。でも、私には彼がエスプレッソ一杯でもイタリアでなくては絶対ダメと思えるような、執着を日本に対して持っていない気がした。それに気付くと少し悲しくなった。私が執着を持つとしたら、それは日本には私の家族や友人といった一番大事な人たちが住んでいるということだけかもしれないと思った。いや、個人的なつながりはもちろん、私は日本人の性質が持つ何かをとても愛し、必要とし求めている。それは例えば、繊細や優しさや、穏やかさや、生真面目さ、美意識といった目には見えない、形にはなかなかならないもの。
イタリアの美は目に見えやすい。。。でも、日本の美は自然であり、人々の感性であり、穏やかな気候であり、形にはしにくくとも、長い間日本という国の中で培われてきたもの。私は、アルベルトがエスプレッソを愛するように、それらの日本の美質を愛し、いつも求め続けている。そしてそれを、自分の中に発見したいと思っていることに気がついた。
港を歩いているとアルベルトが一層のボートを指差した。 「あのアズ−リ色のボート、あれとまったく同じようなボートを父が持ってたんだ」 「素敵! お父さんは釣りでもする人だったの?」 「いや、ただ家族で楽しむためのボートだった。小さなキッチンとトイレとベッドもついててね。よく妹と甲板で寝転がったよ。」 「私は小さな頃、船で旅する話を絵本を読んで、夢に見てたなあ。あなたは本当に幸せな子供時代を送ったのね」 「子供時代はね。。。僕の10代は本当に辛い時期だったけど」 アルベルトのお父さんが今はいない。。。ということにはうすうす感じていたけど、離婚したのか、別居したのか、亡くなっているのかはまったく聞いたことがなかった。 私たちは雨が降り出した人気のない港のカフェの軒先で雨宿りがてら、離れて座って港を見ていた。アルベルトは渋い顔をしていた。アルベルトがお父さんの話をしてくれたのは初めてだった。
「僕の父は文房具屋を経営してたんだ・・・」 彼が10代の半ば、そのお父さんは事故にあって、その後遺症から 肝臓と脳をやられてしまって、10年近く間ずっと寝たきりになってしまっていたという。病院通いと自宅での介護、豊かな生活から店を失い、家も失い、もちろんボートも失った。お母さんの稼ぎでどうにか生活していくことはできたが、彼らは 小さな家に引越しをし、生活のすべて変わらざるを得なかった。 そして、数年前にお父さんは亡くなった。
「本当に大変だった。僕は自分の勉強に専念することはできなかった。バーとかカフェとかアルバイトもいっぱいしたよ。父のことから逃げ出すように、僕はアルバイトしてお金を貯めては山登りの装備を買い揃え、山に行った。父が死んで、僕が大学を卒業したとき、僕はもう25歳になっていた」
私はなんと言っていいのかわからなかった。 「でも、今はあなたも、お母さんも妹も元気にそれぞれやってるんだし、あなたの家族はがんばって一番大変なときを乗り越えたんじゃないのかな。それはすごいことだよ」 「うん。母も妹も今は元気だし、僕だって。でもね、母と今回、イタリアに戻ってから話し合ったんだ。僕たち家族はいまだに父の病気とその死で喪われたものから回復していないねって。」
イタリアでは天気がいきなり変化し、雨に降られることさえ美しい。 最後の夜、再度降り始めた突然のの激しい雨に私が軒下に留まって鞄から傘を出して広げて歩き始めると、襟を立ててさっさと先に歩いていたアルベルトが、私を振り返り 「ふうこはイタリアのAqua(水)を楽しまないんだね」と言った。 「Aqua? ミネラルウォーターのこと?」と言ったら 「僕が言ってるのはこの雨のことだよ。。。見てみなよ。あの雲、なんて言ったらいいのかな。。。」 そこにはあっという間に私たちの頭上に追いついた、こんもりともりあがった濃い灰色の雲があった。まるで、ジョルジョーネのテンペストの絵さながら。。。のドラマテックな雲だった。 「ドラマティック?」と私は言葉に詰まった彼の代わりに続けた。 「そう、ドラマティックなんだ。イタリアだと、何もかもがね。あんな雲イギリスでは見れないよ。」
そう、この街ではすべてがドラマチックに映る。足元の石畳さえ意味を持つ。
うすいグレーの石畳は雨に濡れ、濃い灰色になり黒く光沢を帯びる。私は早足で歩き続けるアルベルトの背中を前方に時々確認しながら、でこぼこの地面に足をすべらせないよう石畳を見つめながら歩く。疲れと足の痛みを感じながらも、足の下に感じるこの旧市街の不ぞろいな、かつ堅牢な石畳は私に歩くことの基本的な喜びを与えてくれる。このしっかりとした足応え、盛り上がってくるような抵抗感、一歩一歩しっかりしてかからないと前には進ませないような頑固さをもって人に挑んでくるこのイタリアの旧市街独特の石畳の坂道は、私に生きていること、自分が自分の足で歩いていることを実感させる。
私はこの石畳を歩いている夢をみた。目が覚めたときにはがっかりしたほど、現実に自分がジェノヴァに戻ってあるいているような感じの夢だった。 湿った港の風、スニーカーを通して足裏に感じる凹凸、あの時のイタリアの空気を思い出すと、目を閉じるだけで自分の周りにイタリアの情景が立ち上がってきて 私をつつむような気がする。私はたった3日歩いただけのあの濡れた石畳をとても懐かしく思う。
私はジェノバのブリニョッレ駅から空港に向かう途中のバスの中、流れる景色を見ながら涙を止めることができなかった。私が、アルベルトが、イタリアが、日本が喪ってきたもののことを思った。そして、いまだにあり続けるものたち、これから生まれるであろうものたちのことを。イタリアだけが私をこんなにも感化することができると思う。
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