2003年04月20日(日) |
I am fascineted by silence. -静寂の魅力 |
ポルトガルから無事に帰ってきました。 最初の3日は嵐で、天気も悪くて部屋でごろごろTVを見たり、晴れ間をぬって近所を散歩したりしかできなかったけれど、残りの4日は友達のパートナーの実家に遊びに行ったり、バーに行ったり、ロカ岬に行ったり、いろいろ行動的に過ごしてあっという間の一週間でした。
友人とは2年ぶりに会ったので、最初の夜は私も、そしてたぶん彼女もちょっと気を使っていたけれど、あとは本当にリラックスして楽しく過ごすことができて、心の通う友達といろいろと話せること、思いを分かち合えることの喜びをひしひしと感じた。
一週間あればたっぷりいろいろと話せると思っていたけれど、過ぎてみるととても短く感じる。でも、彼女とそのパートナーと話すことでいろいろなことに対して、理解が深まったり、確信したり、無心になってみたりすることができて、とても良い休暇になった。。。
丘にぽつんと建つ一軒やである彼らの家は本当に静かで、夜も朝も耳をすませば鳥のさえずりが聞こえた。私はそこで、静かな環境の魅力を改めて感じた。 なぜ、私がこんなにも慌しく、忙しいのに、駆り立てられるように一ヶ月で二度も旅行に行ったのか?
もちろん、彼女や、アルベルトに現地で会いたかったせいもある。ポルトガルやイタリアといった太陽の光溢れる場所に行きたかったせいもある。。。 そういう理由のために、私は旅にでたと思っていたが、イタリアでもポルトガルでも、私が意識していなかった理由、旅先での誰にも邪魔されない静かな夜というものを私がいかに必要としていたか、求めていたか?ということに気付かされた。
昨日の夜、ポルトガルから帰ってきて、私は自分が大学の寮でいかに、騒音に苦しんでいたかということに気がついた。私の部屋は不幸にもダイニングルームの隣で、インド人のフラットメイト達が友達も呼んで、頻繁に深夜まで映画を見たり、飲んで語りあったりしている。私のベッドはそのダイニングルームのちょうど壁をはさんだ側にあり、大音量で見る映画の音、話し声などで眠りを妨げられることが何度もあったのだ。
私はそれを同じ寮の違う棟に住む日本人の友達に話したら、それは我慢しないですぐにでも彼らに強く言うべきだと言われた。私は前に一度言って、その後少し静かにはなったのだが、やはり時にはうるさくイライラさせられることがある。
今日、勇気を振り絞って、インド人のフラットメイトの男性二人に私が騒音に苦しんでいることを言ってみた。かなり我慢ならないので、他の人(彼らの仲間の女の子)と部屋を交換したいと思っていることも。彼らの反応は、うるさいと思ったら、その場で言ってくれないとダメだよ。後から言われても、仕方ないし。というものだった。 それに、基本的に、彼らがうるさいから私がこの寮を出て行きたいというのは良くないし、勉強の妨げになるようだったら、僕らにパーティーや、映画を止めてくれ って言うべきだよ。 というものだった。彼らの言い分はもっともで、私がウジウジ悩んでいるのがいけないのだと思う。でも180cm級の声の大きいインド人の男が4-5人集まっているところに、入っていって、うるさいから静かにしてくれって言うのは私にはとても難しい。 それに、インド人たちは話し声が大きいので、彼らが普通に話しているだけでも、私にはうるさく感じることも多々ある。それを彼らにわかってもらうことも難しいし、私が言ったところで、彼らが変わるとも思えないのだ。 私が騒音を訴えたあと、彼らの態度はとてもよそよそしくなり、二人とも挨拶もせずにダイニングルームを出て行ってしまった。私は1人部屋に戻ってこれで良かったのだと思おうとしたが、彼らの冷たい態度に弱気になって、1人で机に座って泣いてしまった。外国で1人で生きているのだから、強くならなくては生きていけない。 これくらいでくよくよしてはいけない。彼らの騒々しさが生まれつきなら、神経質だと言われようが、私が音にうるさいのも生まれ持った傾向なのだ。 私には私の生活傾向を主張する権利があると思う。
私は時々、深夜1人で散歩をする。うるさい自室を離れて、真夜中の大学のキャンパスにある原っぱに1人立ってみる。通り過ぎる車の音以外ほとんど何も聞こえない。私はほっとする。心からやすらぐ。1人、静寂に包まれていることに。
I am fascinated by silence. "Soft Shell Man"というカナダ映画の中で、主人公のカメラマンが聾唖のジャーナリストの女性に出会い、何度も彼女に紙にそのメッセージを書いてみせるというシーンがあった。
そう、私も静寂に魅了されている。
私にとって、精神の平安を得るためには静かな環境がとても大切だということ。 それに気付かされた春でした。
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