2003年04月27日(日) |
私のDiscourse |
日本語でも英語でも、考えていることを他人にちゃんと論理的に話したり、書いたりできるようになるには訓練がいると思う。そのことに対してちゃんと意識して努力することは、私にとっては意味のある大事なこと。
私は今、Discourse analysisをやっているのだけれど、人間の思考や発言に大きな影響をもつDiscourse(話言葉や書き言葉の体系)を形成する要素として、フーコーによって説明された権力や社会秩序といった社会的背景と、実際の個人の活動とがあり、私が誰か親しい人と話すとき、そこには私たちの間だけのDiscourseが存在して、それによって関係がさらに作られていくんだなあと実例のように感じてて面白い。
私は言葉に依存しすぎだと、以前に近しい人から批判されて、考えたことがある。言葉なしに理解したり、信じられたり、感じられることって もちろんあるし、それは素晴らしいことだけど、私はやっぱり言葉を聞いたり、読んだりすることで、確認したくなってしまう。言葉できちんと伝達することを努力せずに、相手の無理解を責めることは端に怠惰な態度でしかないように思うし、自分も言葉できちんと相手に伝えたいと思う。
外部から与えられて私の中で生き続ける言葉たち。 私は言葉によって傷つき、言葉によって励まされる。 言葉は愛情に似ている。
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