昨日、苦戦していたエッセイがようやく終わった。結局、3月のイラクへの攻撃開始前後の小泉首相のアメリカを支持するという会見での発言が、英・米・カナダといった英語を公用語とする国の、英語のメディアでどのように、引用され、翻訳され、報道されているか?ということを分析したレポートになった。 いろいろ書き足していたら、word limitの7000wordぎりぎりになってしまい、資料と参考文献リストを入れたら、A4用紙50枚近い長いものになった。論理のつめに甘いところがあるのは、自分でも承知だが、提出したときは、その厚みに軽い自己満足を感じてしまった。
これから8月の終わりまでに書かなくてはいけない、修士論文は20000word以上なのだが、今回7000wordという長いエッセイを書いて初めて、どれくらい書けばいいのか、なんだか想像がつくようになった。
長い論文を時間をかけて書く時間と場所を与えられる機会はもう人生でないかもしれないので、悔いのないものにしたい。と思っている。 修士論文として今、考えているのは よしもとばななの英訳文の分析、そこで現代日本女性の感覚が英語でどのように翻訳表現されうるか? 彼女の繊細な日本語がどこまで英語において、翻訳可能なのか? そこに描かれる日本文化を伝えることはできているのか? といった問題を自分の訳と、すでに出版されている英訳を比較して考察する。。といった内容。
よしもとばななは自分の小説の翻訳についてこう言っている。 「イタリア語はどの国のことばよりも、(自分の小説に)一番乗る気がします。美しさとか哲学を表現するためのラテン語から発達していった言葉だから、形容詞の数が圧倒的に違う。英語だと、あらすじの紹介になるか、完全な創作の訳で私が残っていないかのどちらかになることが多い」(「イタリアンばなな」より)
そういえば、アルベルトとイタリアを旅している間、色を表す言葉について語りあった。 日本語も伊語も豊かな、光と四季の変化のある自然に恵まれているせいか、色を表現する言葉がバラエティーに溢れているという見解の一致をみた。 日本語だと、浅葱、萌葱、若草、青竹、うぐいす、若葉、若草、裏葉、抹茶・・・緑色系の色をちょっと考えただけでもこれくらいはある。
などと考えながら歩いていたら、クラスメートにばったり会い、聞くところによると、私たちがとっている翻訳学の修士コースで去年は30人中3人が落第=つまり修士がとれなかったという。しかも、先学期私がとっていた、Joyのクラスで、彼女がエッセイにFail(不可)を出した生徒が、何人か私たちのクラスメートの中にもいたらしい。あまり、落第については今まで考えたことがなかったのだが、それを聞いて、修士論文次第では私もありえるのだな、これは気をしめてかからなければ、と思う一方で、たぶん、私は落第はしないだろうとも思った。それは私の中の自分の基準として絶対許されないのだ。私はそう強く思っていることに驚いた。
騒音問題、就職のこと、エッセイの締め切り、修士論文の準備、そして恋愛問題。 この一週間、乗り越えていかなければならない問題は私に山のようにあって、考える時間はいくらあっても足りない、精神的にとても慌しく感じていた。 でも、誰かに相談したり、話し合ったり、そしてまた自分で考えて決断して、実行して、私はそれらの問題にたいしてにエネルギーをかけ、じっくり取り組んで消化していかなくてはならないのだ。ひとつ、またひとつ。
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