ふうこの英国留学日記-その後

2003年07月09日(水) むすぶこと、ほどくこと


相変わらず、修士論文を書くのに四苦八苦しております。
で、日記を書く余裕も感じられずついついさぼりがちになっております。

最近、先のことを考えていろいろナイーブになっており、
思ったことは(使い古されてる言い方だけど)

未来を憂う暇があったら、今を生きることを大事にしたほうが良い
充実した現在だけが良い未来を作ることができる

である。そして友達から聞いた言葉で

間違った船に乗るくらいなら、乗らないほうがいい
(これはちょっとネガティブ、離婚経験者の言葉)

というものがあった。最近、周囲に結婚の話と離婚の話が両方多くていろいろ
考えさせられた。

あと、今日なるほどと思った文章として田口ランディの晶文社のHPの
コラム「勉強しながら君のことを想った」をあげたい。
そこに書いてあった、アメリカはユダヤ人に
とっての約束の土地だったという西垣通の説になるほどと膝をうった。

現在のアメリカはもはや多様化していて、ユダヤ人文化はその重複構造の
一つにすぎないだろうが、アメリカ社会の構造の根底に大きな力をもつものだと思われる。
今年、私はジェノバでコロンブス生家を訪れて、何か違和感を感じた。
私は彼をスペイン人だと思っていたが、世界はそうシンプルではないんだなと
いう実感だった。イタリアとスペインとユダヤ人社会。。。
今日、コロンブスがユダヤ人だったという仮説を聞いて、なるほどと思いあたった。
ジェノバやベニスという海運と通商でにぎわっていた共和国では、経済発展を
優先して、金融や計算に強いユダヤ人に対し他のカソリックのエリアに比べて
差別がゆるかったということを以前本で読んだ。その結果、ベニスやジェノヴァといった海運国に大勢のユダヤ人が移住してきて、彼らの多くは普遍的な能力として、金融業、通商実務や外国語に秀でていたから、外商の場では有利であったし、航海人としても、商人としても優れた人材を輩出したであろう。(多くの人が知っての通り、ベニスの商人に出てくるシャイロックはユダヤ人の高利貸しである)

Globalizationというのは近代の言葉だが、その発想はすでにローマ
時代に生まれていたのだと感じる。(ローマ化するという言葉がCivilizedという
意味で使われてきたというヨーロッパの文脈は、アメリカナイズという言葉が
Globalizeと近似の関係にあることと似ている気がする。)

アメリカにおけるユダヤ人社会の存在感の大きさは、アメリカがなぜ他国に対してこうまでも好戦的なのか。。。ということを説明できる材料だろう。

そして、ふらっと読んだ同じく晶文社のサイトの「我々は「救済」にすら値しない」の、

快楽とは自分から貪欲に求めて手に入れるものというよりは、相手(他者)への涙ぐましいまでの努力への保証のない見返りとしてやってくるものであり、我々がこの報酬をこの上ない貴重なものとして尊び慈しむことができるのも実はそのためである。

という一文にまたまたなるほどと思った。

「ベニスの商人」に次のような一文がある。

慈悲は義務によって強制されるものではない、天より
降りきたっておのずから大地をうるおす恵の雨のようなものだ。

このフレーズの慈悲は、快楽、そして愛情にもおきかえられるのではないかと思う。我々は愛を乞うことはできない。愛とは貪欲に求めて手に入るものでもないし、強制して得られるものでもない。ただあるところにはある、湧き出す泉の
水のようだと思う。そして、快楽はいつふるかわからない雨のようなものかもしれない。

人とは因果な生き物だと思う。他者から与えられる快楽が大きくなければ、
自己完結的快楽の中で過ごすだけで、社会に貢献しようとはしないだろう。
人は弱体化すると、自己完結的快楽を好むようになる気がする。ひきこもり
というのはその自然な結果じゃないかと思う。
社会はより強い快楽をもたらす可能性と同時に試練をも人に課すだろう。ひきこもっても生きていられるかぎり、外部的な快楽を欲する人間でなければ、その過酷さに身を投じてまで、社会の中で生きようとは思わないのかもしれない。

こうやって、書いていると人間社会ってなんなんだ?と思う。
肉食動物は自分の命を保つために、他の動物を狩る。
私たちは自分の命を保つために、社会に参加しなければならないのだろうか?


晶文社のサイト http://www.shobunsha.co.jp/



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