女の世紀を旅する
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2004年02月06日(金) 「老いてこそ人生」 (石原慎太郎)

『老いてこそ人生』(石原慎太郎)

                   2004.2.6




 「熱度と速度を愛する」男,石原慎太郎は老いて,ますます血気盛んだ。今年の9月で73歳とは驚きである。その若さの秘訣は,おのれを絶えず危険と冒険の中に置いて生きているということに尽きる。

 老いることへの嫌悪,成熟することへのかたくなまでの拒絶。慎太郎は死ぬまで青年であり続けたい意志をもった希有な男である。

 かれの偉いところは,老い枯れることを拒否し,青春を,すなわち若さ崇拝をみずから実践してきたその足跡にある。まさに老いても青春のロマンは悠久に続くのである。行動するダイナミックな野生人,石原慎太郎の著書は,なにやら青春論を読んでいるような爽やかさだ。

 彼が,人間賛歌のフランス文学を愛したのも,もっともなことである。以下,その著書『老いてこそ人生』の,ほんの一節を記しておきたい。






●『老いてこそ人生』

 「色即是空(しきそくぜくう),空即是色(くうそくぜしき)」,つまりすべてのものごとは必ず変化するのだ,それこそが人間にとっての絶対の真理だと教えたのは,お釈迦さまでした。お釈迦さまこそ,数多い宗教者の中で「時間」について,その「時間」のもたらすものについて初めて考えた人です。

この世で,誰も時間に追いつくことなぞ出来はしない。
人間の人生,つまり「存在」を洗って流れる時間を神様といえども堰(せき)止めることなど出来はしません。

「時間」は「存在」を証(あか)す「存在」の落とす影なのだから,人間にとって「存在」の同義語の「人生」を証し出す時間の流れ無しの,時間を意識することなしでの,人生など在りません。

昔,越路吹雪(こしじふぶき)のスタンダードナンバーに「人生は過ぎゆく(ラ・ヴィ・サン・ヴァ)」という歌があった。ルフランのフレーズは,

『人生は過ぎゆく 恋も去りゆく
ラ・ヴィ・サン・ヴァ
ラ・ヴィ・サン・ヴァ
(中略)
どうしよう 去りゆく 助けて! 』

という文句だった。

その最後の最後の「助けて!」,というのがまさに殺し文句だった。
この歌の味わいは年齢を重ねれば,重ねるほどよくわかります。
過ぎていく時間がなんで年をとればとるほど速く感じられるのだろうか,本当に不思議なものだ。

子供の頃,いろいろなことをして遊びながら過ごした一日のなんと満ち足りて長かったことか。
それに比べて今では,その日さしたる仕事もせずほとんど無為に過ごしたのに,そんな一日がなんと速く過ぎてしまうことだろう。一日どころか,一年とて同じことだ。子供の頃学んだ,


『少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
いまだ醒(さ)めず池塘(ちとう)春草の夢
階前の梧葉(ごよう),すでに秋声』


という有名な漢詩の実感が年を重ねるごとにひしひしとして在ります。

いつか誰かが,子供の頃と年とってからの時間の経過の速度の実感の差についてこんな解釈をしてみせていました。
時間の流れの速度に違いのありようはずはない。一時間は一時間,一年はあくまでも一年。

つまり時はいつも同じ速度で流れてはいる川のようなものだが,その川のほとりを流れに沿って歩いていく人間の歩みの速度は,年とともに肉体が老化してだんだん遅くなっていき,遅くなってゆく歩みの速度と,川の流れの速度の相対的な差からして,同じように歩いているつもりの人間にとっては,
川の流れがにわかに速くなったような気がするのだと。

なるほど人間は大人になり,社会的な経験を積めば積むほど,さまざまな責任や義理にも駆られて,せわしなく生きるようになるが,その一方,当人の肉体は老化し衰えていって歩速が落ち,人生を洗って過ぎる時間の流れと同じ速度では歩きにくくなるということか。つまり,子供の頃には意識に,むしろ時間の流れよりも速く歩いていたということです。


若い頃,私たちはよく,健康な肉体にこそ健全な精神が宿るといわれたものです。それは真理だと思う。
だから,それが真理であるがゆえにもその逆説もありえるのです。つまり,ある年齢にまでなると今までとは逆に,健全な精神が老いていく肉体を守ってくれるのです。

 これは,人生の充実のためにも極めて都合のいい,有り難い原理だと思う。なぜなら,その原理に沿う限り,人間は老いても衰弱することなしにすむのですから。
 健全な精神とは何もそれほど高尚なものでありはしない。要するに気力の問題です。端的にいって,年齢にかかわらずいかにも年寄り年寄りしている人は,話してみると気力を失った人間でしかない。

 逆に気力のあふれた人はその年にかかわらず,いかにも気力に満ちた人間なのがわかる。そして往々,その気力をはぐくみ培うためにこそ健康な肉体が必要というのが,人間にとっての公理に他ならない。

そこにこそ,若い頃から肉体を鍛えることに腐心してきた人生的な意味が初めてあるということです。







カルメンチャキ |MAIL

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