散書
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2003年03月13日(木) 踏みしめてきた途の下草はもう立てない

振り返れば心は弱くなる。そこに帰れる道があると安心してしまうから。


先天的なものは確かに実在するが、それを言い訳に努力を放棄するなど論外。努力とはもともと不可能なことを克服するためのもの。できないから諦めるのではなく、できないからこそする努力。
コマが回るようにただ数を重ねればいいというものでもなく、常に自省し、新しい視点から新しい修練方法を考察し、ひとつひとつ確かめながら数を重ねること。個人個人に適合しないやり方を繰り返したところで伸びるはずもない。
なにもかもが初めから決まっていると思ってはいけない。初めから決まっている部分に甘えてはいけない。人間だとてもとは単細胞生物から始まり、今は23対の遺伝子を持つに至った。それは必要に応じてではあったかも知れないけれど、1対しかないと決まっていた遺伝子数を増やしたのは間違いなく人間自身なのだから。

向上とは既にそこに設定された壁を突き破り、更なる上を目指すこと。設定された限界に自らを近づけることではない。


待望のブギーポップ最新刊。
‥‥やっぱりブギーポップは面白いねえ。ただ、俺の書こうと思ってる話と系列が似てるのであまり参考にはしないようにしてはいるんですが。

書いてあること。
それとは違うのだけど、やっぱり人それぞれ、考え方は違うのだなと。すぐ近くにいる人でも不快にしか思えなかったり、やたら遠く離れた人でも共感できたり。それでも、誰一人として同一ではないということも改めて思う。

特別な才能など要らない。ただ自分があればいい。

運命など要らない。どれだけ人と言葉を交わしても、きっとこの先、「運命とは努力することを放棄した負け犬の言い訳が生んだ言葉だ」と考える俺は消えないと思う。それを認めることは、俺が生きてきた理由そのものを否定することになるから。

最近、小説を書くということは俺の人生そのものの目的の達成手段であると同時に、贖罪の意味もあるのだと確信。「終わらせることができる」ということは考えないようにしている自分。その逃げ道を直視してしまえば、生きていく決意が揺らぐのはわかりきっているから。


世界の中で自分の価値を信じることなんてできない。自分がなにかを変えられるほど、世界はちっぽけなものではない。


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