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24時間テレビを考える。特に100kmマラソン - 2002年08月19日(月) 毎年、社会福祉のための募金運動をテレビを通して24時間かけて行われます。 その中では、身体の障害に負けず、生きていく姿やボランティアの様子を 伝えたり、何かに挑戦する障害を持った人々の姿にかんどうをうけます。 犬のおやじの某親友の彼は、偽善的でお涙ちょうだいなところがいかにも テレビ受けだけを狙った感があり「禿げしく萎え」のメールを朝から よこします。 てゆうか見てるし! 犬のおやじ個人としては感動を無理に作ろうとしてあまり好きではないのですが 人はテレビを見て感動し、共感し、募金に走るのならいいと思います。 それよりも毎年行われる 「芸能人による、準備不足ありありの素人無謀100kmマラソン」 はいただけません。 何が問題か。吉本興業のはざまさんが挑戦していたころは純粋にすばらしい と思いました。なぜなら彼は何度もウルトラマラソンに挑戦し、マラソンの すばらしさを知り、準備も十分に行っています。さらに、後々のことを考え、リタイヤを決意した年もありました。 彼は走るという行為を理解していたのです。計画通りに無理なく終了し、 予定よりも早くゴールをあっさりとしました。 しかしそれ以降、テレビ局は600kmマラソン、マラソン素人芸能人を使い無謀な 挑戦による悲痛な映像を作り出し、感動を偽造しています。 見た人々は何を思うでしょうか? 「すばらしい!よくがんばった」「厳しいのにすごい!」 賞賛の声はたくさん上がり、犬のおやじも拍手は惜しみません。 しかし、実際テレビを通してマラソン、走るということがどう伝わったか。 これが問題です。アレを見て「私も走ってみたくなった」という人は皆無でしょう。 アレを見る限りでは「がんばることの感動」は伝わりますが、走ることの 喜び、スポーツの楽しみは伝わりません。 むしろ走ることは「つらくて」「怪我を招き」「大変で普通はできない」 と伝わってしまいます。これはマラソンの本質、スポーツの本質を伝えない という、スポーツを冒涜する行為といっても過言ではありません。 怪我をして足を引きずりながらも脚を引きづりながらも走り続ける姿は 「テレビ局側が意図的に作り出した感動」です。 あのような状態ならばすぐに運動中止が原則であり、スポーツとはあんな 状態になってまでやるものではありません。 それをテレビ局側が「感動」を呼ぶために芸能人の女性を使い、苦痛を 強いて、歌で感情的に訴え、見る側の理性を飛ばし感動を植えつけるのです。 走った彼女は満足感でいっぱいでしょう。迎えたパーソナリティーたちは 感動を覚え、涙するでしょう。 しかし、一体この中から何人がマラソンを始めるでしょうか? 走った彼女の脚はボロボロでこれから私生活にも支障をきたす状態で スポーツを楽しむことができるでしょうか? これはスポーツ、マラソンにかぎったことではありません。どんな文化行為 にも当てはまります。ご自分の得意とする分野に当てはめてみてください。 テレビ局に一言言いたいです。 「スポーツを題材とするなら、スポーツの本質を忘れないで伝えよ。」 ...
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