ショコラ(1/2)
     2001年10月05日(金)

「早麻理?」
 九月になったというのに、それまでと少しも変わりはしない暑い日だった。夕方近くにはたしかに秋虫の声が聞こえ、また街中に目を巡らせば、ぽつぽつと目立つショウウィンドウのどこもかしこも、秋冬物を装ってはいたけれど。
 浮き輪も水着も浴衣も花火も、夏という夏の何もかもを流し忘れ去ったような街のどこかに、それでもたしかに残った自然の中で蝉が遠く鳴いていた。
「早麻理じゃない?」
 名前を呼ばれて怪訝そうに振り返った早麻理は、目にしたものにひどく奇妙な感覚を抱いた。
「…郁?」
「やっぱりそう!すごく久しぶり、元気だった?」
 滅多にない偶然にはしゃぐように、彼女はまくし立てた。友人だ、少なくとも友人だった女の子。早麻理は、しかしその彼女の姿がひどく街の中から浮き上がっているように感じた。
「なんでここに?」
 再会を喜ぶより、そのことの方が早麻理には気にかかった。ここは彼女、郁と早麻理が通った高校のある地元ではない。早麻理が一人で暮らす、早麻理の進学先の街なのだ。地元の大学に通っているはずの郁がここにいるということ、絶対におかしいとは言わないまでも、それが違和感の原因であるのは間違いなかった。
「おじいちゃんのところに遊びに来てるの。こっちに住んでるのよ」
 郁は、早麻理のいぶかしんだような目に気付くこともなく、まだ少し興奮したような口調でそう言った。
「夏休みだからね」


 暑さはあまり得意ではなかった。だから、夏は嫌い。
 九月になって、八月のカレンダーを破り捨てることができたのが、ここ最近では一番爽快感を感じた出来事である。
 そんなことを郁に言ったら、そのつもりはなかったのに彼女を笑わせる結果となった。あまりにけたたましく笑うので、周りの席に座った人々から早麻理までが注目を浴びてしまった。
「そんなに笑うことでもないでしょ」
 喫茶店の中、ということに気を遣って、早麻理は声をひそめるように郁に注意をした。別に、聞かれて困る会話をしているわけでは全くないのだけれども。
「ごめん、だって、」
 郁はそう言って苦しそうに一呼吸おいて笑いやんだ。そのまま視線を落として目の前のアイスティーの中のレモン切れをストローでつついている。
「なんだか、意外で」
「意外?」
 その言葉の方こそ、早麻理には意外だった。
「意外って…どうして?」
「だって…、」
 言葉はそのあとには続かなかった。早麻理の方も、特にそのことが気になったわけでもなかったので、あえてさらに問うようなことはしなかった。それよりも、店内に流れる音楽の趣味が悪い。沈黙しているとどうでもいいことがやたらに気になる。
 早麻理、ちょっと変わったね、と郁が顔を上げて言った。
「なんだか、雰囲気が前とは違うみたい」
 そして再び、グラスの中のレモンに視線を落とした。早麻理はまだ口を利かなかった。どういう意味、と聞き返そうとしなかったわけではない。
 それがどういう意味なのか、早麻理自身も漠然と思い当たるような気がしないでもなかったのである。
 どこもかしこも安っぽく装飾された店内に、全く不似合いなクラシックがかかっている。窓際の日当たりのいい席に座って、しかしこの席のいいところなんてその降ってくる陽の暖かさくらいのものだ。それも、冬ならともかくこの夏には…違う、もう秋なのだ。
 しらじらしくも、まだ夏休み。
 ふと、そんなことを考えた。いったい、この街のどこに夏が残っているというのだろう。
 テーブルに視線を落とした。正円の形をしたテーブルの真ん中には、そこだけとりどりの色をちりばめたガラスの板がはまっている。陽の光が当たって砕けていた。
 大した光でもないのに、早麻理はなぜか厭な気がして顔を背けた。まるで逃げるように、そして郁を見た。郁に、今自分がした仕草を見られたかどうかが気にかかった。なぜかは分からない。
「まぁ…あたしにだっていろいろ…」
自分が何を弁解しているのかも分からない。なぜ、昔のクラスメイトを前にしているだけでこんなに気詰まりな思いをしなければならないのだろう、そう自分を訝しんだ。
 爪でガラスの板をたたく。やってしまってから、自分のその余裕のない態度に気付き焦る。その心の動きを感じて郁の前に卑屈になっている自分を見つける。
 …どうしてだろう。
 窓の外の陽の光。安っぽいくせに場違いな音楽を流す喫茶店。偶然再会した以前の級友。そんなものになぜ腹を立て、いたたまれない気持ちにさせられなくてはならないのだろう。
 疑問が膨らんで気分が悪くなった。一つ、一つしかないのだ、疑問なんて。それなのにそのたった一つの疑問が今、自分を押し流そうと…そう、押し流そうとしている。何処へ?圧迫されている、胸焼けのようだ、――吐き気がする。
 煩悶を郁に悟られるわけにはいかない、そんな気がした。視線を逃がした窓の外には、いつもと変わらず人があふれていた。いつもと同じ、そう。ここに、郁がいるからいけないのだ、郁こそここにいてはおかしい人間なのに。
 …そう考えたら、少しだけ胸が軽くなったような気がした。

 そのとき、一人の男の姿が目に入った。
 歩きながら周りをきょろきょろと見回していたので、周囲の人の群から浮いて見えていたのである。郁との気詰まりな会話から逃避したがっていた早麻理は、その男へ注意を積極的に注意を向けようとした。
 ふと。
 男がこちらを向いた。そしてまさに、「捜し物が見つかった」というように、かすかに笑ったのだ。
 そして一瞬、早麻理と視線を合わせた。

「よかった、ここにいたのか、」
 男は店の中に入り、二人の方へ急ぎ足で歩み寄った。
「遼? 何? どうしたの?」
 郁の口調から、早麻理はやっとその男――遼の目的が自分でなく郁にあったのだと気付いた。ひどい思い違いをしてしまったようで、こっそり心の中で自分に向かって毒づいた。馬鹿な。
「何、じゃねぇよ。忘れもんだよ、ほら、」
そう言って遼がテーブルの前に置いたのは、赤い革の定期入れだった。
「え…あれ?」
郁はあわてて、椅子の足下に置いていた自分の鞄の中身を検める。…無い、らしい。
「まったく、出かける前には持ち物チェックしてもらわなきゃダメなんじゃねぇかお前。まだ使う定期だろ、無くしたりするなよ」
「う…だって、中の写真…じィちゃんに見せようと思って…」
「見せたあとちゃんとしまったかどうか確認しろよ。出したもんみんな投げっぱなしなんて、お前は小学生か」
 今年でいったい幾つになったと思ってんだお前、そう言いながら遼は堂々と郁の隣に腰掛けた。もともと四人掛けのテーブルだったが、そこそこ長身の男がそこにいるというだけで、空間が突然狭くなったように感じた。
「ブレンド、お前のおごりな」
 さっさとウェイトレスに声をかけて注文する。
「手間賃だよ」
 抗議の声を上げようとした郁は、その一言であっけなく制された。

 そしてようやく、遼の紹介が早麻理へと通された。遼――蔓木遼は、早麻理が進学のために住むようになったこの街の出身で、今は隣の県の大学に通っている、と言った。夏休みなので帰省していたところに、同居の祖父に会うと言って郁が遊びに来たらしい。
「じゃあ、郁とは従兄妹ってこと?」
「や、又従兄妹」
「はとこ、でしょ?何よマタイトコって」
「同じことだよ。そうとも言う」
 本当にものを知らんなお前は、そう言われて郁がむくれた。
「遼みたいな雑学王になりたいわけじゃありませんから」
「一般常識だろ?」
 子供のようににらみつける郁とは対照的に、遼の方は視線すら投げかけない。自分では金銭を払わないコーヒーを悠々とすすっている。その二人の対照的な姿を見て、思わず早麻理の口元から笑みがこぼれた。
 それをめざとく見つけたのは遼だった。
「ほら、笑われてるぞお前。まぁ無理もねぇけどな」
「うっさいなぁ。これからあんたに早麻理のこと紹介すんだから、ちょっと黙ってよ」
「そんなにうるさく言ったっけ、ねぇ?」
「黙れってば。ええと、こちら、高校時代のクラスメートで学級委員だっ
 いちえだ
た一枝早麻理」
「学級委員!一枝さん、大変だったでしょ。こんなアホがクラスにいたんじゃねぇ」
 遼が身をかがめて、早麻理に顔を近づけた。郁をのけ者にするようなそぶりで、聞こえよがしの内緒話を見せつける。
 妙に近くにある遼の目元、瞳の色に、早麻理は内心ひどく動揺した。知り合ったばかりの男と気安く会話ができるほど、自分は男慣れしていない、いや、そのはずだった。
「そうねぇ。高校の時も結構手を焼かされたのよ、無鉄砲な上にドジだから。蔓木くんも大変ねぇ」
 自分でも気付かないうちに、早麻理はうまく遼と調子を合わせていた。なんでもないことのように、そう、慣れたことのように、遼のおふざけにつき合うことができていた。すぐ目の前にあった遼の瞳が、早麻理の視線と合わさる。背中を冷たい汗が伝うのが分かった。しかし、その緊張が両の瞳を通して遼に伝わることはなかったようである。遼は、目の前で親しげに笑った。
「ちっとも成長しないのよね、郁ってば」
「そうそう」
自分で自分が信じられなかった。口が、顔の筋肉が、早麻理の心とは別に勝手に動いているのだとしか思えなかった。しかし、それが不審で不快だったわけではなかった、むしろ全く逆だった。
 そうだ、私は今までうまくやってきていたのではないか?おかしかったのは、さっきまで、郁と二人で向かい合っていたときなのではないか?
 …混乱しそうだった。

 結局、郁は遼の分まで代金を払うことになった。郁も決して気の弱い方ではないのだけれど、それでも遼にはどうも逆らえないところがあるらしかった。伝票を持ってしぶしぶ会計を済ませに行く郁の後ろ姿を見送りながら、早麻理はなんとなく落ち着かない気分を持て余していた。
「ねぇ、一枝さん、」
 それは当然、遼が――知り合ったばかりの、詳しいことを何も知らない男が目の前にいるせいだったが、当の遼にはそんなことは伝わるはずもない。
「今日、一緒に飲みに行かない?」
「今日?」
「そう。ちょうど今日、仲間内で飲みがあるんだけど、女の子の人数少なくて寂しいからさ。だれか誘えって言われてたんだ。なんか都合悪い?」
「別に…でもどうしてあたしなの?」
「気に入ったから。それじゃダメ?」
遼はまた、早麻理の方へ身を乗り出してきていた。けれども先程のようにはもう緊張しなかった。
「かまわないわ、何時に何処?」
早麻理は薄く笑っていた。その表情には余裕があった。
 自分の姿、自分の振る舞いは元来こうだったのか――いや、それは違う。高校時代の自分はたしかに引っ込み思案で、男と話すことには慣れていなかった――だから、これは大学に入ってからの自分。大学に入ってから変わった、自分の今の姿なのだ。
 店の外に出ると、あたりは薄く夕暮れの色を帯びていた。街の中の何もかもがかすかに赤みがかって見える。
「じゃ、またな」
 そう言って、さっさと遼は帰っていった。その背中に向かって郁が舌を突き出しているのがおかしかった。
「仲が悪いの?」
「別に、あいつがあんまりあたしのこと馬鹿にするからいつもいつも…、」
 …郁は遼のことが好きなのだ。早麻理はそれにやっと気付いた。笑みが口元に上る。遼と向き合っていたときの笑いと同じものだった。
「…ねぇ、早麻理、」
 その早麻理の表情を見て、思い当たったように郁が言った。
「あんた…洸良に、似てきたね」

 洸良に。
 洸良に似てきた、郁はそう言ったのだろうか?
「ん…なんか、さっき遼と話してるときとか…なんだろ、洸良みたいに見えた、気がする」
 郁は言いよどんだ。早麻理が、その両の瞳で表情もなく郁を見据えていた。何か、悪いことを言ってしまっただろうか?街中、止めどなく流れ溢れかえる人と人の間で、不自然に立ち止まった二人を見るものはない。郁にとって見知らぬ街は、今の早麻理にように不可解だった。
 たしかに早麻理は変わってしまったのだ、そう郁は思った。
「…そう?あの洸良に似てるって言うなら、」
 早麻理は郁からついと視線を逸らした。そのまま、思い出したように人波の中へと歩み出す。
「光栄だわ」
 おどけたような言い方ではなかった。早麻理は冗談のつもりで言ったのだろうか、それとも本心?それすらも郁には判断できなかった。
 さら、と早麻理の髪がなびく。郁の方を振り返った瞬間、傾いた陽の斜めの光を受けて、ピアスがかちりと光った。
 ――洸良が。
 洸良が高校時代に気に入っていたピアス、髪型、髪の色、よく似たものを今まで見ていたことに、郁はようやく気付いた。
 振り返った早麻理は、ひどく綺麗に微笑っていた。

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