文
- ショコラ(2/2)
2001年10月06日(土)
高校で過ごした三年間、その間のどんな出来事もあの子抜きに思い出すことなんてできやしない。 あの子の笑い声、仕草、ペンを持つ指先、爪の形、笑うときちょっとだけ口元が歪んでしまう、完璧よりも少し崩れた綺麗な笑顔、…高校時代の記憶のすべてに、そういったあの子の「影」が必ずリンクされている。けれども決して、あの子自体が思い出になっているわけではない。 思い出なんかじゃない。そうだ、思い出なんかになるわけがない――自分を誘い出そうとするあの子の腕のしなやかさと、手のひらから伝わったあの子の熱、形の優れた口元で耳元にささやかれたときに感じた、耳に血の上る音、背中の産毛が逆立つ興奮。思い出せばまた動悸が乱れる。胸の隅に置いて時々懐かしむ類のものではありえない。それは生々しい記憶だ。 洸良――。
近寄ることはできない。触れることはできない。 遠く離れた街に住むようになって、でもやはり忘れることはなかった。早麻理の体の中のどこかに洸良はいて、ふとしたはずみで皮膚の上に浮かび上がってくる。そのたびに、早麻理は洸良の指や髪や頬の感触がよみがえってくるのを感じた。それはとても心地のよいことで、だからこそひどく早麻理の胸を押し潰した。 たとえ本物の洸良に会えたとしても、もう自分は洸良に話し掛けることも触れることもないのだろう。 自分にそんな資格はないのだから、と早麻理は繰り返す。元に戻れるなどとは思っていない、そうなる余地は最初からどこにもないのだ。 (――それでも) それでもいつか、また、――。 思わずにはいられない。
彼女のことを思えば、鮮烈に、吐き気がするほどに。 ひどく苦しく狂おしく、早麻理は――洸良を求めている。 不真面目なくらいに奔放で、何物からも自由と笑う、最愛の女の子。 まだ、振り切れない。
夜になって、早麻理は遼に指定された待ち合わせの場所に行った。 気が進まなかった。昼間、誘いを受けたときの余裕はもうない。一人きりになってみると、やはり自分は何も変わっていないのではないかと思う。 では、あれは誰なのだろう。 郁と話していたのは、あれは確かに自分だった。しかし、遼を前にしたときの私は、――違う、どちらも私のはずではないのか。 (洸良に) ――洸良に? 「あ、昼ぶり」 ふ、と現実に引き戻された。遼がそこにいて、笑っていた。 「んん、昼ぶり」 顔がうまく動かない。笑顔がぎこちなくなってしまう。どうしてだろう、昼間はあんなに自然に話せていたのに。周りが暗く、はっきりと顔を照らし出されることがないのが幸いだった。 居酒屋のような店の中は、やけに明るい照明がついていた。思わずうつむく。遼は早麻理より前を歩いていたので、見られる心配などないとはわかっていたけれども、それでもそうせずにはいられない。 奥の方の座敷に、何人かの男と女が座っていた。遼のいう、「仲間」たちらしい。 知らない人と話すのは苦手だ、そういう意識が早麻理の足を遅らせる。 どうして来てしまったのだろう、頭の中を後悔がするりと通り抜けた。 靴を脱いで座に上る、何人かが顔を上げた、目が早麻理を見ている、 「どうもぉ。今日はお邪魔させてもらいます。早麻理です、よろしく」
――あ、また。 昇りつめるように高鳴っていた心臓が、ゆっくりと落ち着いていくのを感じた。 洸良が。 早麻理の中の洸良が、表層に浮かび上がった。
「早麻理さん、彼氏とかは?」 右隣に座っていた丸い眼鏡の男が、話の流れに乗せて訊いてきた。 「いないですよぉ。いたら多分、今日来てないと思うし」 薄く笑って、男のほうを見る。だいぶ酒が回っているようだった。目のふちが赤く染まっている。酒などいつもはほとんど呑んでいないので、自分が案外強いということを初めて知った。 時間は真夜中に差し掛かっていた。もうそろそろ宴も終わる。 遼の言う「仲間内」というのは、高校時代の部活動仲間のことだった。共学校で、特に男だから、女だからという規制のあるものではなかったらしく、テーブルを囲む男女を見回してみても、別段女が少ないということはなかった。男女の人数は早麻理を含めてちょうど半々になっている。今更ながら、その会の意図に気付いた気がした。あさましい、という思いがよぎる。 かすかに胸が疼いた。 「じゃ、好きな人は?」 「・・・・・・いませんよ、」 苦笑が漏れる。これは本心だ。 「なんていうか、そういう気分になれないんですよね、」 (洸良が体の中に棲んでいるから) 「・・・・・・恋愛がしたくないわけじゃないんですけど、」 「チョコレートとか、ココアとか、いいらしいよ」 左隣から二人の会話を聞いていた遼が、早麻理に言った。 「フェニレチラミンがたくさん含まれてるんだってさ」 「なに、それ」 「脳内麻薬みたいなやつだよ。人が何かに夢中になってるときに、よく分泌される。例えば恋愛してるとき、誰かに邪魔されたりすると逆に燃えたりするっていうだろ。ああいうときにはそのフェニレチラミンが出てる。相手と強く結びつきたいって思うと盛んに分泌されるらしいね」 「ふぅん?」 「んだから、チョコレートを食べると、恋をしたいって気持ちが強くなるって言われてる」 「・・・・・・なるほど、雑学王ね」 昼間、郁の言っていたことを思い出して、早麻理は納得した。 「郁みたいなこと言わないでよ、一枝さんのために言ったんだから、」 早麻理は思わず遼の方に顔を向けた。ひどく近い位置に遼がいる。 遼は早麻理の目を覗き込むようにして言った。 「それから俺のため。ね、もう出ない?」
どういう意味、と聞き返す間もなく、早麻理は腕を掴まれていた。 「一枝さん、ちょっと気分が悪いみたいだから、俺送ってくわ。後頼んだ」 丸眼鏡にそう言って、遼は立ち上がった。つられるようにして早麻理も続く。 外の空気は冷たかった。ぶる、と体に震えが走る。突然のことに動揺して、何がどうなっているのかわからない。 「寒い?ほら、これ着て」 遼が差し出してくれた上着を羽織る。息がかすかに白くにごった。秋がもう来ているのだ。 「ありがとう、・・・・・・」 何か言わなければ、という気持ちが早麻理を焦らせる。なぜ遼は自分を連れ出したのか、そのことを懸命に、――いい方向へと考えようとしていた。 「嫌だった?俺は、二人になりたかったんだけど、早麻理ちゃんと」 ――ぐら、と世界が揺れた。両足の下の地面があやふやだ、どうやって立っていればいいのだろう、 「早麻理ちゃん!」 遼に抱きとめられていた、胸の奥がざわざわと蠢いている。酔いが一気にまわってきていた、 遼の胸が目の前にある。 「――ごめん、いきなり、足が、蔓木くん、」 「遼」 ざわざわと、 「遼でいいよ」 それは興奮だ。
早麻理は遼の首に抱きついていた。周りを渦巻く波がどんどん高くなる、今、目を開いているのか閉じているのかさえわからない。まぶたの裏に移った光のように、赤や黄色や青の鮮やかな色彩が、対照的にぼやけた輪郭を伴って視界に広がっていた。遼の指が髪をくぐった。背中を降りている。遠くのような近くのような、そんな曖昧な感覚がひどく頭を掻き乱す、 眩暈が。 眩暈がしそうなのに、どこかで何かが覚醒しきっているのを感じた。
精一杯の力でしがみついて、遼の首筋に唇を寄せる。首の匂い。男の匂いがした。全身の毛がそそけ立つ。自我が吹き飛んでしまいそうなほど心地よかった。遼の手がうなじから首から耳を通って頬を撫でて頭を上向かせて、唐突なほど近くに遼の目元が現れてすぐに焦点がぼやけて、触れてきた遼の唇が意外なくらい柔らかくて歯が小さくぶつかって口の中で遼の体温を感じた瞬間、
――――― 吐き気がした。
渾身の力で遼の胸を突き放した、意表をつかれたのか、そのままその場に倒れこむ遼の顔めがけて着ていた上着を投げつけた、もう振り返れない、早麻理は全速力で逃げた。 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。世界がぐるぐる回っている。まっすぐに走れているのかどうかもわからない。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。 夜の風を受けて頬が冷たくなっていく。涙が、涙が頬中をひどく濡らしていた。袖でむりやり唇と顔の両方を拭う。べったりと化粧がついた。 遼が悪いんじゃない、そうじゃなくて、自分がいけないのだ、 私に取り付いていたのは洸良の幻なんかじゃない、あれは私自身だ、 自分を騙すために、自分の情動を正当化するために、 洸良を言い訳にしただけに過ぎないのだ、 またしても。
めちゃくちゃに走り回ったせいでどこにいるのかわからない、半年も暮らした街がまったく見知らぬものに変わっていた。異物は郁じゃない、自分自身だ。洸良のふりをした、洸良になったつもりになっていた自分こそ、この街に、いやこの世界にいることを許されないものなのだ。 高校時代の三年間、私は洸良を言い訳にしていた。洸良の奔放に流されるふりをして、自分の、傍から見て「早麻理らしからぬ」行動のすべてを正当化していた。その自分の卑怯に気付かずに、ずっと洸良を傷つけていた――もう悔い改めたつもりになっていただけで、何一つ私は変わっていない。 洸良が離れて行ったことが何より辛かった。洸良がいなければ私の心の何かが壊れてしまう。それでも私に彼女を引き止める権利も資格もないことは明らかで、だから私は心の中にもう一人、代用品の洸良を作り上げた――それが、自分の欲望に対する免罪符代わりに行使されることを見てみないふりをしていた、そう気付いてやっていたのだ、 ――あさましいのは私。 私は一体どこまで堕ちていくのだろう、いつになったら洸良を自由にして上げられるのだろう、そう思うことが傲慢だという気もした、洸良はもう、私のいないところで自由に生きているに違いないのに、 ――洸良には、私は必要ないものだったのだろうか、
それでもまだ自分は洸良を求めて仕方がないのだ。 何もかもを捨てれば洸良が帰ってくるのなら、喜んで私はそうするのに。
私の中の洸良も、また壊れてしまうのだろうか。 足が痛んだ。もうここから動けない、そう思った。走るのをやめてその場にへたり込んで、顔を上げてみる。どこに迷い込んでしまったのだろう、あたりには何の明かりもなかった。 洸良。――洸良さえいれば。 恋は要らない、洸良がいなくなってしまうくらいなら。
酔いはもう醒めてしまっていた。座り込んだ地面は冷たく、体からは熱が奪われていく。しかしそれよりも、なくなったものは大きい、と思った。 早麻理は、いつの間にか――一人きりになっていた。
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