ウォーターメロン
     2001年10月18日(木)

 今日。
 僕は。
 彼女に。
 …フられて、シマイマシタ。

「………うわあああああああああああああんんん」
と、情けない泣き声をあげているのが僕。
「…煩い、黙れ、いいかげん手ぇ離せ、」
と、うんざりした顔で僕を見下ろしてるのが幸門。
「遅かれ早かれ駄目になるってわかってたんだろ、今更泣くな」
 頭の上から冷たい声がして、僕の両手は振り払われた。慈悲なさすぎだ。なんて親友甲斐の無い。
 幸門は自由になるや否や、不機嫌な顔のままさっさと部屋を出て行ってしまった。僕がサマーセーターの裾にしがみついているのが、よほど鬱陶しかったらしい。セーターに涙染みができたくらいなんだって言うんだ。ブランド物らしいけど。
 十九年来の親友に対してなんて仕打ちだ、と幸門を心のうちで呪いながら、僕はまた一人で泣いた。女々しくなんてないぞ、理由はアレだが自分的には男らしい泣きっぷりだ。あ、自分で言ってて寂しい。バカかな僕。
 ことん、と耳元で音がした。
「ほら、飲めよ」
 床の上にしゃがみこんだままの僕の目の前に、マグカップが差し出された。ガラス板のはめ込まれたテーブルの上で、真白い湯気が立ち上っている。フローリング剥き出しの床の上は、いくら夏でも冷房の効きすぎた部屋では冷たすぎて、僕は迷わずマグカップに手を伸ばした。主の心床並みとか思ったことは、一応訂正してやろう。
「…って、ミルクココアじゃねぇか」
「今コーヒー切らしてんだもんよ。出してもらえるだけいいだろ、文句言うな」
 幸門は辛党のはずだ。
「…彼女用かよ、クソ、むかつくなー」
「んじゃ飲むなよ」
 飲むけど。
 窓の外で雲が動いている。太陽が切れ間から顔を出して、僕の両瞳を刺した。位置が低い。
 こまきから電話があったのが午前十一時。待ち合わせに出かけたのが正午。五分で話を切り上げられて、呆然としたままここに辿り着いたのが午後二時。左腕の時計を覗き込む。両の針はちょうど一直線に並んでいた。四時間もここで泣いてたのか。
 初めて幸門に対して「申し訳ない」気持ちが湧いてきたのは、マグカップの中身をあらかた飲み干して落ち着いたせいもあったと思う。呪ったりして悪かった。今日来た時だって、バイト明けで疲れて眠ってるところを叩き起こして入ったんだし。低血圧でボーっとしてる耳元でわぁわぁ泣いたし。
「…さっきさ、」
 ここで礼を言うか謝るかするべきなのだろうが、変に意地が勝ってしまって、どうにもならない。僕は幸門の眼を見ないようにして、空のマグカップにまた口をつけた。
「こうなるのわかってたって…どういう意味?」
 カップのふちはもう冷たかった。
「だって、こまきちゃん、無類の変態嫌いじゃないか」

 …………  は。

「……俺が変態だって言うのかよ」
 意表突きすぎだ。言いがかりもいいところだが、あまりのことにとっさには怒る気すら浮かばなかった。
 そうとも、言いがかりだ。僕に「身に覚え」なんてものは、
「毎度毎度女の腕枕で寝たがる男はやっぱり問題なんじゃないか、色々と」
 ………あった。というかそれが変態かどうかはさておいて、何よりも僕が気になったのは別のこと。
「……なんでお前がそんなこと知ってるんだよ…?」
「相談されたから」
 こまき……!何故…イヤだったのなら僕に言えばいいのに何故幸門に…!
「まぁ、それがほんとに直接の原因だったかどうか知んないけどさ、いつまでも泣いてたってどうしようもないだろ、わかる?」
 …それはそうだ。それは、そうなんだけどさ。
「……腹、減ったな」
 泣いてすっきりした分が少し、ミルクココアで不覚にも慰められたのがもう少し、幸門に愚痴こぼしまくったのが大部分で、どうにかダウナーからは抜け出せたようだった。今になってみて、やっと自分がひどく取り乱していたことに気づいた。…遅すぎる。
 途端に平常の感覚が戻ってきて、ひどい空腹感に襲われた。そういえば昼以来何も食べていないじゃないか、よく今まで力尽きることなく泣いていたものだ。
「…美味かった」
 それだけ言って、幸門の方へカップを押し出す。やはり礼は言えなかった。
「ん」
 キッチンへと立つ親友の背中に、迷惑かけすぎたかな、と珍しく反省してみた。短い返事だったけれど、その中に自分を許容してくれるような響きを感じたのは、僕の勝手な思い込みなのかどうなのか。
 いずれにせよ、僕は確かに幸門に頼りすぎている。
「悪い、今冷蔵庫カラだわ、」
「あー?使えねぇ奴め!腹減ったよー」
 ……でも、そんなことを素直に言うのは真っ平だ。気持ち悪い。
「他人(ひと)んちで飯食おうとする奴が何をえらそうに…これでも食ってろ」
 投げられたものを反射的に顔の前で受け止める。…貧血の友、乾燥プルーンだった。幸門は貧血体質なので、薬嫌い自然嗜好の実家からよく送られてくる。だからだいたい家には常備されているらしく、よく見かける。見かけるんだけど。
「うわっ。何泣いてんだよ、またダウナーか?」
 キッチンから戻ってきた幸門が、またうんざりした眼で僕を見下ろした。
「…泣いてねぇ…」
 うわ、自分、力無さすぎ。実のところ泣いている。
「…あいつ、体の発育小学生並みでさ…横になると、こう、平らな面にレーズン二つ乗っけたみたいに…」
「おま……それ、こまきちゃんにも言ってたんか?」
「言ってたけど」
 僕は正直者だ。
 幸門が、目の前で大きくため息をついた。
「デリカシー無さすぎ…フられて当然だ、このバカモノめが」


 だいたい、僕とこまきが付き合い始めたのだって、幸門の仲介があってこそだった。もともとこまきと仲がよかったのは幸門の方で、僕は最初、こまきのことを「親友の彼女」として見ていたくらいだった。だから、幸門がこまきと僕のプライベートを知っていたとしても、まぁ…特に不思議は無いような気もしないではないのだが。ちょっと癪だが、僕と幸門を並べてみて、相談ごとを持ちかけるならどちら、と訊かれたら、たとえ僕でもやはり幸門を選ぶだろう。要するに、僕は頼りがいが無さすぎるのだ。
 それが、他人ならともかく、自分の彼女にまでそう思われていたというところがまた情けない。実に僕らしい。泣けてくる。
「松坂牛!安売り!これ買おう」
「金はお前が払うんだよな?」
 結局、夕飯をご馳走になることにして、男二人で買出し。
「あー、鶏肉でいい」
 金が無いのは僕も幸門も同じなのに、神様は不公平だ。僕にも「頼りがい」ってやつが欲しい。百円くらいで売ってくれないものだろうか。
 夕方七時を回ったスーパーの中は、七時半以降半額の商品を求める貧乏人でごった返している。ずらっと並んだ牛肉を眺めていても悲しくなるばかりの貧乏人一号二号は、それぞれお目当ての食材を仕入れて早々に引き上げることにした。
 レジの横、売れ残りの花火が安値で無造作に積まれている。夏だ夏だと思っていたのに、意外と終わりが近づいていることに気づいた。そういえば、もう彼岸も過ぎてたっけ。花火大会も納涼祭も墓参りにも行ってないな、夏休みの意義は一体何処に。
 同じことを思っていたのか、休暇突入と同時に勤労青年に化けた貧乏人一号が、ふと珍しいことを口にした。
「スイカ、買って帰ろっか、」
 レジの向かいに、これまた無造作に丸い物体が積み上げられている。そういえば今年はスイカも食べてない。海にも行っていない。何とも知れない生活のうちに旬も過ぎてしまったのか、夏休み前にはあんなに高価だったスイカも今や千円を切っている。
「スイカ割りでもするか?」
「なんで」
「お前の失恋記念、」
 殴ってやろうとした僕のゲンコツは見事にかわされた。


 スーパーを出て見上げた空は、見事な茜色に染まっていた。
「、まっか、」
 ここ最近、空なんか見た記憶がない。いつのまにか、もしかして、空、高くなってる?思わず息を呑んでしまった。
 川沿いの堤防の上を歩く。道路より少し高くなった分、なんだか空に近づいたみたいで気分がよかった。
「バカと煙は、」
 そこまで言って幸門が笑う。しかし僕はご機嫌だったので無視してやった。
 水面から吹いてくる風は、半袖にハーフパンツの僕には少し冷たかった。八月が終わる、なんだか勿体無い。僕は毎日、何をやっていたんだろう。もっと夏らしいことをしておけばよかった。
 こまきのことも、ずっと放って置いたんじゃなかったっけ、僕は唐突に思い出した。この夏休みに入ってから、こまきと出かけた記憶なんて何も無かった。思い出すのは、そうだ、幸門と…。
 わずかな記憶の中と同じ薄い肩が、現実の視界の隅に映った。
「っ、バカ、危なっ…」
 幸門が警告の声をあげるよりもずっと早く、僕は不安定な堤防の上を全力で走っていた。遠く、前の方に見える橋の上にいた彼女がそれに気づく。
 遠目でもわかるくらい、顔が一瞬ひどくこわばった。
「……こまきっ!」
 反射的に、逃げようとした彼女の腕をつかんでいた。
(もう付き合えない、)
「教えてくれよ、俺の何がいけなかったのか、」
(悪いけど、別れて欲しいの、)
「……お前のこと、ほっといて悪かった、」
(理由は……、)
 ……衝撃的なくらいあっけなかった五分間がよみがえってきた。
「……かまってくれなかっただけじゃないわ、郁視は何もわかってない、」
 こまきは僕を見ようともしなかった。今も、
「……あんたが本当に好きなのは、誰なのよ?」
  (理由は)
 …彼女は、そこで確かに言いよどんでいた。僕が、夏休みの間、一番多く思い描いていたのは、
「……………っ」
 僕は、手を、放していた。
 …………………親友だから、じゃなくて?


「……話、済んだのか?」
 いつのまにか、彼が追いついてきていた。あたりを見回す、こまきがいない。僕はどのくらい呆けていたのだろう。
 いや、今だって十分呆けたままだ、違う、そうじゃなくて。
「日、暮れちまうぞ、スイカ割るんだろ?」
 何を言われたと思ってるんだろう、そんなに心配そうに見ないで欲しい、あ、僕、もしかして顔色悪い?駄目だ混乱する、
「……割る、わかってる、だいじょぶ」
 やっとのことでそれだけいった。


「あ、割るっつっても、獲物が無いよな、何も、」
 川原に降り立って、幸門が振り返る、
「どうしようか、アレか、手刀でいくか、」
 僕には応えるべき言葉が見つからない。
「金は無いけど、力は…まぁそれも無いけどな、」
 無理してるように見えるよ、精一杯明るくしようとしてくれる幸門の心遣いがやたらと痛い。
 夕暮れと呼ぶにも薄暗い川原で、幸門と幸門の足元のスイカが黒い影のひとかたまりに見える。あそこまで、行かなきゃ。そう思うのに、足が動かない。脳味噌が今、容量オーバー。
「こら、早く来いよ、ほんとに夜になっちまうだろ、」
 呼ばれればそばに行きたいと思う。一緒にいればそれは楽で、確かに何か満ち足りて。
 でも、それが友情じゃなくて?
「……あんまり、こまきちゃんの言ったこと気にすんなよ、」
 胸が冷えた。見透かされたような気がした。
「あの子、あの外見で結構キツいこと言うからさ、お前、自分で思ってるより多分上等だよ、またいいことあるって」
 ……眼を背けた。今、自分が当惑していることの実情を知ったら、こいつはどう思うのだろう。死んでも知られたくない、そう思った。つまり、僕は、……違う、幻滅されたくないとかじゃなくて。
 過度の友情と、恋愛感情を分けるものが情動であるとするなら、僕は。……僕、は。
 気遣わしげに背中を叩く幸門が厭わしい。違う、厭わしいのはそれを喜ぶ、僕自身。
 僕はおもむろに足元の石を拾い上げた。大きく振りかぶって、反動をつける。
 その衝動に、乗るか、反るか。それは、こまきを失うことと幸門を失うこと、僕にとってどちらが大きな喪失かを僕自身に問うことだ。僕は、自分がどうしたいのか、今になってはっきりと知った。同時に、それを認めまいとしてひどい嫌悪感と吐き気が僕の意識を混濁させる。いっそ、狂ってしまえればいいのに。自分の好きに生きることが、どうしていけない?この、激情としか言いようのない熱に、押し流されてしまえれば。…けれども、それは僕にはできない。僕の中には、理性と倫理を振りかざす、もう一人の常識人ぶった「僕」がいる。そう、僕(おまえ)だ。

 ………だからもっと熱が上がって、お前なんか死ねばいいのに。

 勢いよく振り下ろした石は、みし、という音を立ててスイカの中にめり込んだ。中からのぞく紅い果肉に、食欲を誘われるどころか生々しくて吐き気をもよおした。割れて、割れてしまえ、いっそ、ここで、このまま、……………できない。
「紅いな、すげぇ」
 夏が終わる、夏が終わる。スイカが割れた、空は紅に溶け落ちた。でも僕は。僕の熱は。
 夏が終われば、消えるのだろうか。
 夏が過ぎれば、どこかへ昇華していくのだろうか。

 川原の水面は鈍く光り、昇りはじめた月が僕を照らして。
 元のうやむやに戻ることしかできない僕を、静かに。
 ただ、静かに。

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