Pleasures
     2002年01月01日(火)

「明日は10時から仕事が入っているので、帰ります。起きたらちゃんと何か腹に入れて、めんどうくさがらないで服も着てください。今年の風邪はひどくこじれるらしいから。
 しばらく会いません。
 明日も、明後日も、一週間か一ヶ月か(※取り消し線を入れる)期限は思いつかない。
 嫌いになったとか、別れたいとか、そういうことじゃなくて。
 どのくらい離れていられるか、自分でもわからないけど。
 愛してる、多分。考え出すと悪酔いしそうなくらい、愛してる、だから、



 いつかお前を刺し殺してしまいそうだから。



 もう会わない。」
























 煙草はすっかり生活の中に染みついてしまった。半年前まではこんなものに頼ってはいなかったはずなのに、今では気が付くと指が、シガレットケースと唇の間を30分置きに往復している。
 首のうしろに、すべらかな肌の温度を感じた。白い軟体動物のような涙(るい)の腕が、するすると首の周囲をめぐって懐の中へ落ちた。
「一本もらうね」
 器用に片手だけで背広の内ポケットからシガレットケースを取り出す。そのまま離れるかと思った次の瞬間、首をゆるくしめる腕が増え、体に馴染んだやわらかい重みを背中に感じた。
「・・・首。苦しいんだけど?」
 花びらがほどける直前の、期待と不安でバラバラに壊れてしまいそうな花のつぼみ。
 やわらかく花開くことを知っているのに、それを疑って愉しむ喜びの香り。
 Pleasures。
「ん、人間マフラー。」
 答える声は、くすくす笑いと唇にくわえた煙草のせいで、少しくぐもって聞こえた。
 つい、と目の前を白い魚がよぎる。涙のむきだしの腕は、いつでも僕の目を惹きつけた。半分ほどの長さになってしまった、僕の煙草を取り上げるその指も。
 自分の唇から離れていく白い魚を目で追って、首をわずかに上に持ち上げる。薄い唇を笑みの形に軽く引き上げ、僕と目を合わせて片目をつぶって見せる涙のくわえた煙草。頭上で、僕の燃え尽きそうな煙草とキスをした。
「何か着たら?」
 一瞬のうちに胸の中にうずまいた痛み、うずき、喉もとまでせりあがったはずのすべての感情を押し殺して、僕は瞳を伏せた。

 ふわり、ふわり。
 煙草の煙に涙の香りが交じる。
 目をとじた暗闇の中、首のまわりの白い生き物は、確かな温度を持っているのに僕をひどく不安にさせる。
 不確かさが嫌なんじゃない。

「昼までうちにいるなんて、珍しいね」
 僕の背中とソファの背もたれの間に移動した涙が言う。僕は無言で、また新しい煙草を一本取り出した。
 背中と胸に空気の入る隙間もない、息苦しくなるくらい密着した体勢が気に入ってしまったらしく、涙の体は相変わらず僕の背中にあり続け、やわらかな腕が僕の首をゆるくしめあげる。
 今、この腕を振り払って逃げるべきなのだ。
 心のどこかで、そんな声がした。
 煙草の本数が増えるだけ、涙と僕が近づくだけ、僕の心が僕を裏切る。
 煙草の端を噛み締めるたび、本当に歯を立てたいのは違うものだと気付いてしまう。
 懐の奥の奥、渡すことができなかった書き置きが重く胸にのしかかる。
 眠る涙を残して逃げるように消えることは、ついに僕にはできなかった。
 涙から離れたら僕は壊れてしまうけれど、
 涙と一緒にいれば、いつか僕が涙を壊す。

 僕が、涙を、壊す。

 いつか、僕の心が理性を超えて。
 本能のままに涙を押さえつけて。
 壊してしまえば、それで僕は幸せになれるのだろうか?

 今、この煙草はナイフになって。首のまわりの白い腕を乱暴につかみあげて。振り向きざまに片手で魚を縫いとめて、その腕よりも白い胸の中に。皮膚を破って肉を掻き分けて心臓をつらぬいて。
「緑?」
 名前を呼ばれた瞬間に僕をしばる理性のたがは外れ。
 泣かれてもかまわない、おびえるのなんて気にしない、そして僕は僕を裏切り。
 ・・・振り向いてソファに押し付けた涙の唇の煙草から、また新しく自分の煙草に火をつけた。

 いつか。――いつか。僕が涙を殺すことになったとして。
 僕の心が幸せを感じられるようになるのかどうか、わからない。
 涙の胸をつらぬいて、そこに僕が感じとるものが喜びであるかどうかなど、実際にその場に立ってみるまではわからないと知っている。
 僕はいつまで僕のままでいられるだろう。
 今、この胸に抱くものはやわらかな涙の香り。
 けれども、指の先から、腹の底から、唇から、瞳の奥から、
 突き上げるこの衝動に、いつか。


 血のにおいがただよう。

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