文
- はつもうで
2002年01月06日(日)
「あ」 がらんとした車道の上で、短く投げ出された声が幾重にもこだました。何、と振り返ると、動いた空気の冷たさに頬の産毛が逆立つ。山茶花の香りが、ふわり、とほほを掠めた。 「け、まして、おめでとう!」 道路の向こう側から夜霧が叫んだ。隣の真名が腕の時計に目をやる。 0時。
新年だ。
はつもうで
どの年も12月31日には、家族ぐるみで3人がそろう。 お母さんと2人きりで年を越した記憶は、私にはない。いつでも隣に真名、少し離れて夜霧、その周りを取り囲むそれぞれのお父さんお母さんがいた。 それは、それぞれの親がみんな幼馴染同士なのもあるし、そのうちのどこの家も、お父さんかお母さんどちらかしかいないせいもある、と思う。 普段は忙しくて会えないぶん、お母さんたちは年末恒例の年越し会を楽しみにしている。それは、2人きりではつまらないということではなくて。
自分と相手しか人の気配を感じない広い家は、新しい年を迎えるのには少し淋しすぎてしまうから。
はぁ、と息を吐き出してみる。 真っ白く煙る小さな雲は、かがり火の明るさで暗い影になった。
大人たちが酔いつぶれて眠ったあとの初詣も、私たち3人の中ではすでに恒例となっていた。 主に会場扱いされている真名の家から歩いて10分ほどの距離に、小さな寺がある。 紅白を見終わってから出かけるので、新年はだいたい路上で迎えていた。 「あけましておめでとう、今年もよろしくね」 頭ひとつぶん低い位置から、今年初めての真名の声を聴いた。見上げると、鼻の頭が寒さですこし赤くなっている。両手をポケットから出して背伸びをして、真名の顎と耳たぶを覆わせるように、情けなく首にたるんでいたマフラーを巻きなおしてあげた。 「マフラーちゃんと巻かなきゃ、風邪ひいちゃうよ。あけまちておめでと」 「あけまちて!」 夜霧が耳聡く聞きつけて言う。 「あけまちておめでと雨月ちゃん、ことちもよろちくー」 「…うるちゃい!雨月、しょんなんじゃないもん!」 むきになるとますます何を言っているか判らなくなる。悔しいけれど、言い返しても失敗するばかりだ。私はそれ以上の反論を堪えた。 …しばらく出てきてなかったのにな、赤ちゃん言葉。
私の言葉は、だいぶ直ってきている。 今までどうしてこんなことが出来なかったんだろうと思うくらい、正しい音を発声することは簡単だった。きちんとした音を覚えることは、本当にやる気になったなら、もういつだってできていたのだと知って、少し反省した。 うまくしゃべれない言葉を利用して、私はお母さんに甘えっぱなしだったのだ。 できない子供だったら、かまってくれるから。気にかけてくれるから。甘やかしてくれるから。できないことを責め立てるようなお母さんじゃないから。 優等生を気取って、お父さんがいなくてもしっかりした子供だとみんなに認めさせてやるといきまいて、でも、「言葉がしゃべれないのは仕方がないんだ」と自分に言い訳しながらべったり甘えていた。 意地になって、お母さんに甘えていた。そう、意地になっていたのだ。
私にはお父さんは必要ない。 私にはお母さんだけで十分。 お父さんはいらない。
お父さんのことなんて何も知らない、だから好きじゃないって思ってた。 恋しいと思ったことなんかない、これから先も思うことなんてないと思ってた。 気付かせてくれたのは、あの日の月と雨と。
きっと、その向こうには。
「なんで初詣なのに寺なのかなぁ」 夜霧が、拾った石をかがり火の中に投げ入れながら言った。真名が横で慌てて止めようとするけれども、夜霧はまったく聞いていない。新年早々、巻き込まれて大人に叱られるのは嫌だから、私は少し夜霧から離れた。 「おみくじがないのがつまんない」 またひとつ、小石を選んで投げる。まわりに人がちらほらいるのに、一向に気にすることもなく、夜霧の目はゆらゆらゆれる火だけを映している。特に楽しそうというわけでもないのに、どうしてそんな無意味なことを繰り返していられるのだろうと不思議に思った。 寺の境内を、いつになくごたごたと人が歩いている。入り口のかがり火の周りを、大学生くらいの男女が囲っている。「久し振り」「元気だった」そんな会話が漏れ聞こえた。普段はもっと静かなこの街に、たくさんの人が集まってきている。またひとつ年を送り迎え、それをそばで見守るものが自分の愛する家族でありますように。そんな願いを胸に抱え持ち、自分を育ててくれた巣の中へ翼を休めに戻ってくる、たくさんの人たち。そのうちのひとりに、いつか自分もなるのだけれど。 離れていくまでにはまだしばらくの時間があって、それはとても先のことに思えるけれど。 いつか帰ってきたときに、これが自分の巣だと思える場所に、真名も夜霧もお母さんたちもいますように。それが私の巣でありますように。 小さく手を合わせた。
「願い事、何にした?」 帰り道、屋台で買ったチョコバナナの棒を構え、指揮者のように夜空に絵を描きながら夜霧が言った。 「ひみつ」 「ないしょ」 「僕は、今年こそお前の赤ちゃん言葉が直るようにって、ね。嬉しいだろ」 「余計なお世話!」 入り口のかがり火のそばを通りかかったとき、夜霧は今度はその棒を火の中に投げ入れた。これはさすがにまずかったのか、そこに立っていた男の一人がじろりと夜霧をにらんだ。すいませんすいません、という真名の声が聞こえた。 私はそのとき空を見上げていた。夜霧がさっき空に向かって振りあげた棒の先で、星は今は薄い雲に覆われて、弱い光だけを投げかけてくる。気温が下がっていた。は、と吐いた息は、暗い空にくっきりと浮かび上がって、吸い込んだ冷気に思わず震えが走った。真名でなくても風邪をひいてしまいそうな寒さだった。 「でも、でもさ、」 謝っていたせいで遅れた真名が、走って私たちに追いついてきた。 「さっき、夜霧がお願い事教えてくれちゃったけど、それってさ、口に出したら叶わないって言わない?」 夜霧は、代わりに謝ってくれた真名に礼を言うこともなく、しれっとした顔でまた小石を拾い出した。けれども今度は投げつける火がない。夜霧は拾った石をまた地面に落とし、今度はつま先で蹴り始めた。 「叶わないように言ってるに決まってるだろ」 こちらを振り向くこともなく、蹴った石が狙いを逸れたのも気にせず、今度はまた違う石を拾い、また落とす。 生まれたときから一緒にいても、夜霧の考えていることはわからない。 夜霧の取る奔放すぎる行動も、私にはさっぱり理解することはできない。 それは、たとえいつも一緒にいたとしても、私と夜霧とがまったく別の人間であるということで。 「嘘。一年に一度の大切なお願いチャンスを、お前のためなんかに使うわけないじゃん」 振り向いた夜霧の顔に浮かんでいたのは、いつもの無表情ではなくて、ちょっと口の端をゆがめただけの笑顔。 夜霧は奔放で自由だけれど、決して私と真名から離れて行くことはない。 けれどもそれがいつまでも絶対であるわけではない。 夜霧の、私には理解することができない行動も、すべてはもしかしたら私の言葉と同じ物なのかもしれない。 私たちはまだこんなにも幼い。
「…あ」 声は、小さく車道にこだました。 「雪、」 ちらちらと視界に映り消える、花のような雪。 「初雪だね、綺麗」 真名が嬉しそうな声で言った。見上げた空には、薄い雲からぼんやりと見つめ返す月がいた。 「パパたちにも知らせなきゃ」 「…お年玉かな?」 「え?」 ひらひらと舞い落ちて、音もなく降り積もる。 それは確かに冷たいけれど、優しく肩に触れて頬を撫でて。 会ったことがなくても、顔さえまったく知らなくても、私は確かにあなたを愛しています。 あなたもお母さんも、私にとっては同じくらい大切なひと。そう判ったからこそ、私はお母さんの背中から降りて自分で立つことを覚えはじめました。 今までごめんなさい。いらないなんて言ってごめんなさい。聞こえますか?そこから、私が見えますか? お父さん。
いつか帰ってくる私の巣に、みんなが、そしてあなたも、確かに存在して笑っていられますように。
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