カスタード(1/2)
     2002年01月13日(日)

 一年の長さが短くなったように感じるのは、僕がもう十八歳であることと無関係ではない。人が年を取れば、その人にとっての『一年』は、今までの彼の人生のうちの、年齢分の一と等しくなるからだ。分数の場合、分母の数が大きくなれば大きくなるほど、その数全体での絶対値は小さくなり、したがって僕たちの感覚の中の『一年』は、だんだんと縮まっていくというわけだ。二歳の赤ん坊には半生にあたるものが、六十歳のおじちゃんにとっては一時間中の一分と変わりない。実際にはおんなじ長さのはずなんだけどなぁ。
 それにしても、と僕はこっそりとため息をついた。金曜日の七時限目、世界史の授業中である。
 それにしても、今年の時間の流れは急すぎる。ついこの間まで、確かに気温は二十度を越えていたし、まだまだ半袖で外に出られていたはずなのに…というのは少し大袈裟だけれども。でも確かに僕は、この間まではもっと違う生活をしていたはずなのだ。
「ヒトラーは少年時代、音楽家を目指していました。ところが戦争に行って毒ガス で喉をやられちゃって、なんかあの妙なダミ声っていうか、そんなのしか出なく なっちゃったんだって。きれいな声だったそうですよ、彼は」
 世界史担当の上野先生の話し口は、悪い意味でなく少年のようで、生徒にも割と評判がいい。ただ、怒るということが滅多にないので、授業時間中ずっとうつぶせになったまま寝こけてる不届き者も一人二人ではない。上野ファンの栄太は、いつもいつも僕に「もったいねぇもったいねぇ」と愚痴をこぼす。その気持ちも分からないではないが、僕に言われても困る。かく言う僕も、上野先生の授業は好きだったんだけど…。

 社会科モザイク授業選択世界史、というのがこの授業の分類になるんだと思う。文系の僕たちは二年次から、日本史と世界史とどちらかを選んで受講することになっている。当然、二つの科目が同じ教室で授業を受けるわけではなく、二つのクラスが合同になって、片方の教室で日本史、もう片方の教室で世界史、と分けられている。そんなわけで、僕はいつもこの時間は移動教室だ。一階下の一組の教室は生徒数が少ないから、席に余裕があって自由に座る場所を選べる。僕はここ二年の間、ずっと窓際の席に座っている。南向きに建てられた校舎のほぼ中心に位置するこの教室の窓辺からは、広い校庭とそのずっと向こうにある正門、脇の大銀杏まで眺めることができる。
「…今って秋だっけか」
「何しみじみしてんだ!!お前もちゃんと授業を聞け!歴史は大切なんだぞ!?」
 不意に、前の席にいた栄太が身体ごとこっちを振り返った。細く整えられた眉が、ぎゅっとつり上げられている。…別に、ちょっとした独り言だっていうのに…。
 特に何を申し合わせたわけでもないけれど、一年の時からの友人の栄太も、僕の前の席を二年間占領している。栄太は言うだけ言うと、すぐにまた前を向いた。世界史の授業が好きなのだ。そのほかの授業も大抵好きみたいだけれど。
 …今が秋だという気は本当にしなかった。十一月も一週間過ぎ、二週間過ぎ、気がつけばもう第四週目。高校三年の大詰めの時期が迫り、今日と明日と二日をかけてのマーク模試もある。今日の午前中と五時限目は、文系科目の試験で終わった。
 秋という季節の明確な区切りが見つからなかった。見つけたいとは思っていた。…けれども、僕が少しぼんやりしているうちに時間はどんどん僕の上を通り過ぎて、カレンダーは身を磨り減らして残りわずか、教室の黒板の隅のカウントダウンだって…とにかく、いつから秋になったのだろう、それを僕は考えていたのだ。頭の上を飛び越していく秋は、僕の頭の中にまで朽ち葉を降らす。どんどんどんどん降り積もって、どんどんどんどんうずめられて、僕は、僕は…っ
「……気ィ散らしてんなよ!いくら成績がよくたって、ちゃんと努力しねェお前な んて、俺は認めない!」
 前を向いたまんま、栄太が小さく言った。僕は窒息する直前のような気分から解放されて、ひどく安心して息をついた。どっと脂汗が流れる。とにかく僕は最近変なんだ。
「はい、ちょっと顔上げてー」
先生に促されて、憔悴した瞳のまま僕はのろのろと前を向き直した。瞬間、先生と視線がぶつかる。僕は反射的に口元に笑みを浮かべようとしたけれど、失敗した。



 僕の通う高校は私学で、県内でも有数の進学校である。とは言っても、有名大学、国公立大への進学率は県立のトップクラスにはかなわない。所詮『二流』止まりなのだ。…なんて、こんなこと僕が言えた義理ではないけれど。
「……お前、最近ちっとおかしくねェ?」
 授業が終わって、まわりのみんながぞろぞろと教室を出ていく中、僕は立ち上がらず黙って窓の外を見ていた。立ち上がれなかったのだ。栄太が両手で僕の机を押さえつけ、前のめりになりながら僕の両目をにらみつけていたから。
「……べつに?…どの辺がおかしいっつぅの」
 校門のそばに看板代わりにそびえ立つ大きな銀杏は、樹齢推定二百年の、この学校の自慢の種のひとつである。幹が大人四人で囲めるほど太く、枝も多くて立派ではあるんだけれど…臭いだけは僕にはどうしても許せない。聞いたところによると、近所の人たちからの苦情も毎年毎年すごい数になるそうだ。当然だろう。
 一組の生徒が迷惑そうにちらりと僕たちのほうを見た。『いつまでここにいるつもりだ』とでも言いたげである。
「栄太…邪魔になってるよ、帰るぞ」
「答えになってない!!」
……意地になると手のつけようがない。まったく、栄太の悪いところはここだ。いいところも同じだけど。
「おかしくなんかねえよ!どこも!」
僕はいい加減答えるのが嫌になって、栄太の両手を机から振り払って立ち上がった。
 ……困ったことに、僕の長所と短所も奴と同じようなところなのだ。

「…栄太、」
 ホームクラスに戻る途中、へそを曲げてしまったらしい栄太に僕の方から声をかけた。
「…………」
 浅黒い肌、キリッとつり上がった一重瞼にツンツンした茶色の髪。隣を歩いてはいるけれど、ぶすっと黙りこくったままこっちを見ようともしない。まったく…。
 階段を上る足取りも重く、僕たち二人は教室に入った。これで席が離れていればまだ気も楽だっただろうに、あいにく僕たちはホームクラスでの席も窓際の前後なのだ。一組の教室のちょうど真上に当たる僕たちの教室は、一階分位置が高いせいで、なんだかかえって大銀杏が遠く見える。僕はちらっと黒板の上の丸い時計を見上げた。HRが始まるまではまだ少し時間がある。
 がたっ、と大きな音をたてて僕は立ち上がった。栄太がちょっと、怪訝そうに僕のほうを見た。こういうときはいつも、『話がある』の合図だと承知しているからだ。僕は何も言わずにベランダへ出た。
「……黄色いなぁ、銀杏」
 頬を打つ風はひどく冷たかった。十一月って、こんなに寒かったっけ?
「ベランダに出て銀杏が散るのを眺めるなんて、終わりだなお前も!」
「なんだよそれ」
じろっとまわした白目がちの眼が僕をにらんだ。栄太はまだ機嫌が悪そうだ。
「上野先生が言ってたろ!ほら、十月頃に」
「……ああ」
覚えはあった。
「俺は紙飛行機は飛ばしてない」
 大銀杏も、まだ青々としていた頃だ。
『今はまだ大丈夫だけど、あの銀杏が黄色くなって、葉っぱがひらひら舞い始めた 頃に、ベランダに出て紙飛行機とか飛ばしてるようになると終わりだね、遠い目 してさぁ』
先生はそう言って例の温和な顔で笑った。言ってることは結構厳しい。
『君たちはそうならないでよ』
………何が言いたかったのかはなんとなくわかる気がする。そして僕はきっと、栄太には否定してみたけれど、…先生が言ったとおりの状態になったのだろう。
「…あっという間に時間が過ぎるよな」
「なんでそんなこと言うんだよ!」
栄太は再び怒り始めた。風が僕の頬をかすめる。乾燥してピリピリした空気は、着実に冬に向かう季節のせいばかりではなかった。
「…なんだよ、なに怒ってんの」
怒らせたいわけじゃないのに。
「……俺には時間がねェんだよ!焦らせんな!」
なんだよ、栄太の勝手虫。



 時間が早く過ぎ去っていくように感じているのは、当然ながら僕だけではないのだ。よくクラスの中を見回して見れば、みんなみんな一人ひとりが何かに急がされせかされている。もちろん、栄太だって。
「いいよなぁ真志は!勉強なんかする必要ないんだから。くっそぉ、ルサンチマン だぜ!」
 栄太の怒りは、喉元過ぎればあっという間に忘れ去られる。HR中であるのにもかかわらず、堂々と椅子に後ろ馬乗りになっている。
「………何?なんだって?」
「ルサンチマン!あらゆる生命の根元にある、より強くなろうとする意志への、き っかけみたいなもの!簡単に言えば、恨みとかねたみとか…怨恨感情?」
…栄太は哲学科を志望している。そう、栄太はちょっと変わっているのだ。
 栄太の思考はいつだって唐突だ。時々僕がついていけなくなっていることも構いやしない。
「でもいいんだ、俺は負けない!もっともっと頑張って、いつか抜かしてみせる! 力への意志だ!!」
「小松、うるさい!ちゃんと前を向け、話は聞いてたのかァ!?」
 担任の檄が飛んだ。栄太は一瞬まじめな顔になって、すぐに素直に前を向いた。しかし、担任をにらみつけることを忘れない。
 …栄太に時間がないのは僕にもわかっている。どこの大学を志望してるのかは知らないけれど、国公立大の哲学科なんてどこだって大抵難関じゃないか。僕とは違って、毎日毎日がむしゃらに勉強している栄太にとって、時間の流れは速くて当然なのだろう。だからこそ、なんの目的も持たずにだらだらして、なおかつ『時間は早く過ぎるなぁ』なんてぼやいてる僕が腹立たしくて仕方ないのだ。…必死の努力を感じこそすれ、申し訳ないという気持ちはとうとう起こらなかった。

 僕は、自慢ではないが勉強のできる生徒だったと思う。「だった」となぜ過去形かと言えば、それは単に成績が下がったからだ。
 気がついたときにはもう手遅れだったというのはよくある話で、今月はじめ、模試の結果を目にしたときの僕のショックは大きかった。なまじ、『今回は割とできた』などと思い込んで油断していたぶん、自分の実力を見せつけられ、その期待値による水増し部分のあまりの多さに気付かされたときは、本当に大袈裟でなく世界の崩壊を感じた。今まで頑張ってきた成果は一体どこにあるんだろう、こんな結果は冗談に決まっているとさんざん否定したあげく、僕はさっさと第一志望の難関国立大学をあきらめた。簡単なことだった。僕は僕が今までしていた自分に対する過大評価を認め、『勉強なんてしなくったって俺はイケる』と調子に乗っていたことを認め、過去のこれまでの、大切にコレクションしていた試験結果を全部焼き捨て
た。本当に簡単なことだった。おかげで今、僕には何もない。何もなくなったのだ。
 勉強以外に僕には何も自慢できるものがなかったということではない。こう言ってはなんだけれど、僕は割と人望がある方だと思うし、部活はテニス部だったけれど部長まで務めていた。なくなったものは希望と夢だ。それからおまけに、大学に行きたい理由。今まで結構第一志望にこだわっていて、それ以外は絶対どこにも行きたくなかった。けれども今になって考えてみると、はたしてそこまで第一に執着する意味はあったんだかどうか…今の僕にはもう、文学部だったらどこでも同じとしか思えない。
「なぁなぁ真志、ちょっと俺の『ためになる話』に耳を傾けてみる気、ない?」
HRが終わるや否や、再び栄太は後ろ座りをした。…僕は相当、栄太に好かれているんだろう。
 僕は少し顔を歪めて笑った。栄太の『ためになる話』は、奴の口癖だと言っていい。毎度毎度内容は違うけれど、大抵の場合それは栄太の思い出話で、ほとんどの場合『ためになる』かどうか怪しい。しかもなぜか自分の話だということを隠そうとする。
「昔々あるところに、自然を愛する少年が十四人の家族と一緒に暮らしていた」
「それってお前だろ」
「いいから黙って聞けよ!ちげェよ!少年は長い夏休みも終わりに近づいた頃、両親から河原でのバーベキューに連れていってやると言われ、それまでたまりにたまっていた夏休みの宿題を徹夜して一気に片付けた」
「そのころから結構無茶だったんだな」
「俺じゃないってば!…とにかく、少年は上機嫌だった。夏ももう折り返し地点を 過ぎていたが、暑さだけは夏の真っ盛りと言ってよかった。空は青く晴れ渡っていて、海の方角には…行ったところは、結構海に近い、川の下流だったんだ。海の方角からは、真っ白い雲がわきあがっていた。それを見た瞬間、俺は思った、『ああ、徹夜してでも来てよかった』」
「結局お前なんじゃん」
「どうだっていいだろそんなこと!話に水を差すなよ!…とにかく、少年は…いいよもう!俺は、…続きがわかんなくなっちまただろ!その後なんだかんだあったんだけど、ふと足下に白い石が落っこちてるのを発見したんだ」
僕はけらけら笑った。笑い続ける僕に栄太はしかめっ面をしたけれど、構わずに話を進めた。
「拾い上げてみると、それはそこいらにはないくらい綺麗な石だった。なんだろうな、なんか…曇りやしみがひとつとしてない、…生みたての卵みたいだった。形もちょっと似てたし。俺はそれをポケットにしまって、家に持って帰った。その夜、不思議な夢を見たんだ」
「へぇ」
「夢の中で、俺は石になっていた。色が白かったから、たぶん同じあの石だ。けれども形が違っていた、俺の形は角が尖ってぜんぜん卵じゃなかった。俺は山の中にいた、そして空に放り出された。噴火があったんだ。俺は川に落ちて、したたかに頭を打った。どこが頭だったかって、そんなのわかるかよ!とにかく頭を打ったんだ。川の上流は激流だった、少なくても角がボコボコの石にとっては。俺は他の奴らとぶつかり合いながら、いつの間にか競争するように、しかも必死になってだぜ、他に遅れじと川を下った。けれど俺は気付いてなかった。俺たち石は自分の意志で川を駆け下りているつもりで、本当は川に流されているんだ」
「…へぇ」
「俺は薄々それを感じてはいたが、根っから信じる気にはなれなかった。だけど、川の中流まで来たとき不意に俺は、自分の姿が変わっていることに気がついた。ぶつかり合いの中で俺自身も慣らされたんだろうな、俺は素直にそれを受け入れた。俺の角はすでに無くなっていたんだ。みんなみんな、擦り切れて無くなり、ただの白い丸い石になっていた。俺は周りを見回した、やっぱりそうだ、みんな同じ。それぞれが持っていた独自の角はみんな無くて、ぶつかり合いは起こらないしたとえあっても相手の形を変えるようなことはあり得なかった。角が丸くなったんだ。川に流されて海へと下っていくなか、俺たちはどんどん角を落とされ、なんの変哲もない、みんなおんなじ、丸い石になっていく。違うのなんてせいぜいその色だけさ、形はみんな、整えられていくんだ。俺はいつしか、嫌になってきていた。結局、どんなに競争してたって行き着くところは同じなんだ。そこへちょうど運良く、河原の広い石ころ畑が見えた。俺は力を振り絞って石と石の隙間に引っかかり、どうにか海まで流されるのだけは免れた。そこで目が覚めたんだ」 
 栄太は言葉を切った。じっと、こちらの様子をうかがうように見つめているのがわかる。僕は…僕は、何を言ったらいいのかわからなくなっていて、下を向いたまま押し黙っていた。
 と、栄太の方が息を抜いたのがわかった。僕は反射的に顔を上げる。
「続きがあるぜ。俺は目が覚めて、自分があの白い丸い石を握っているのに気がついて、思わずそれを投げ捨てた。奇跡だと思ったんだ、しかも気持ちのいいもんじゃなかった。奇跡って悪い意味にも使うんだぜ、って文学部志望のお前は知ってるよな、そんなこと」
僕は相変わらず黙っていた。
「その後俺は、だるいまんま起き出して布団を片付け始めた。前日は布団の上で徹夜して、一日出しっぱなしだったんだ。…枕を返してみたら、何がでてきたと思う、」
「………何、」
「『夏休みの友〜サマーワーク〜』。ページは『理科〜河原のできるまで〜』」

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