文
- カスタード(2/2)
2002年01月14日(月)
「それで!?栄太が言いたかったことって、結局なんだったっていうの?」 メイが呆れたようにいう。でも、なんとなく面白がっているようだ。 「…『ミラクルだと思ったことにも、きっと必ず裏がある』」 「あはは!」 四時半ともなると、急に陽が落ちてくる。いつもより膨張して見える太陽は、僕より頭ひとつぶん小さいメイの髪と雲のない空を、うっすらとオレンジに染め上げた。 「栄太らしいといえばらしいけど、どっちにしても非科学的じゃない」 ひとしきり笑った後、メイはまだおかしそうに僕を見上げた。 僕とメイは、世間で言うところの『彼氏』『彼女』で、つきあい始めて二年ちょっと、つまり、一年生の時からの仲である。きっかけは単純で、一年生でおんなじクラス、隣同士の席に座ったのが出会いだった。男女別の出席番号が同じだったのだ。僕の『的場』と、メイの『藤崎』で。当然、同じクラスだった栄太とも仲がいい。 「…科学的に証明しようなんて思っちゃいないだろ」 「あたしは気になるもん」 僕たち三人は、二年に進級したときのクラス替えで、僕と栄太は二組、メイは五組と分けられた。一年生で隣になったときからわかっていたことだった。なぜなら、そのころからすでにメイは、必ず物理学部に行くと公言していたから。 「うわぁ…見て!」 メイが僕のコートの袖を引っ張った。校門のすぐそば、見上げた頭上には大銀杏が、僕たちを包むようにたくさんの枝を広げていた。 「いつの間にこんなに色づいたのかなぁ」 僕だって、今日気付いたばっかりだ。 …夕日に照らされた大銀杏は、七時限目に一組の窓から見たときよりもはるかに優美で、大きく見えた。下から見上げる僕たちに、その枝と枝の隙間から、薄い藍色を纏い始めた空と小さな星をちらりと見せる。銀杏は黄色に紅葉するものだと思っていたけれど、僕はその認識を改める必要性を感じた。冷たい空気と空の色に映える葉の群れは、黄色よりももっと深みのある、いや白っぽいんだけど少し赤みを帯びていて、なんだっけ、確かに僕はこの色を知っているのに、どこで見たんだろう、…そうだ、あれはなんて言ったっけ、 「…………豚カツ」 不意に、メイが僕の思考を止めた。思いも寄らない言葉に、僕の頭の中を渦巻いていた言葉は一気に抹消された。信じられない気持ちでメイを見る。 「…ハムカツ、串カツ、鰺フライ」 「……………」 「たべたいーっ」 大銀杏の木を見上げたまんま、メイは空腹を訴えていた。僕の方など見向きもしない。僕はせっかくわかりかけた問題を、解決できないまま取り上げられた不機嫌な気分で言い捨てた。 「色気ねぇの!」 「だってさあぁ、見事なキツネ色じゃない」 ………だからって…確かにそうかもしれないけど。僕が思い出そうとしていた単語とは、それは明らかに違っていた。別に豚カツを見下しているわけじゃないが、僕が考えていたものはそれよりずっと高等なものだという気がした。……食べ物であったのは間違いなさそうなんだけど。 僕たちは再び歩き出した。そんなことをしているうちに日は完全に沈み、突き刺すような寒さが、コートの厚い生地を通って浸み入ってきたからだ。思い出したように左手の時計をのぞき込む。よかった、バスはまだ行ってない。 「…今日の英語さぁ、」 メイが、ぽつりと試験のことを口に出した。夢から覚めた後のような、妙に無機的な声だった。 「あたしやっぱり、文系教科ダメなんだなって思っちゃった。頑張ってるはずなん だけどなぁ…真志はどう思う?」 校門前を通り過ぎる車のヘッドライトが、こっちを振り向いたメイの髪とまつげを闇に浮かび上がらせた。吐く息が白い。 「……………さぁ」 ………僕に何を言えっていうんだろう。頑張ってるなら、それでいいじゃないか。 「真志?」 「…文系教科、国語と英語なら教えてやるよ」 僕はメイを見ないようにして言った。第一志望をあきらめたこと、もうメイには言ったんだっけ?言わなかったのかもしれない。メイの第一志望は東京の公立だ、メイの成績なら多分なんとかなるだろう。そして僕の第一志望だったところは、そこからすごく近い国立…でも僕の志望が変わったって言ったら、メイはどうするだろう。 メイはどうもしない。僕にだってわかっている、それは確かなことだった。メイは僕のために東京の大学を選んだわけじゃない。自分の夢、希望のため、当たり前のことだ。 「ほんと!?ありがと、やっぱり真志だね」 メイはうれしそうに微笑んだ。僕は素直に笑えない。 「あたしも、数学だったら相談に乗るよ」 「…俺、必要ないもん」 メイが、その言葉をどう取ったかはすぐわかった。 「そうよねぇ、真志には必要ない、か。勉強しなくたってできちゃうんだもんなぁ。うらやましいよ」 …胸が何かで詰まったように重かった。泣きたくなったわけじゃないけれど、僕は思いっきり眉根を寄せて、目をつむった。まぶたの裏に、道沿いの街灯の明かりが映り、視界を赤く染めた。 「………ルサンチマン」 「え?」 メイが、聞き取れなかったという風に耳に手を当てた。 「べつに」
本当はもう、模試を受ける必要などないのだ。 受験が終わったという意味ではない。僕が志望する地方の大学は、センターでは英語と国語しか使わないということだ。 十一月の第四土曜日、本当なら家で休暇を楽しんでいてもいいはずの日である。それなのに、僕たちは受験生でセンター入試を受けるからという理由で、学校にいつも通りに行かざるを得なかった。マーク模試二日目、科目はもう数学と理科がひとつだけ…両方理系だ。僕にはもうやる気がない。 遅刻してもいいくらいの投げやりな気分で、僕は途中コンビニに寄った。僕の方は午前中で全て終わるけど、メイは理科が二科目必要なので、午後まで少しかかってしまう。一緒に帰るためには昼御飯の準備が必要だった。 空は雲一つ無く、青く高く澄み切っていた。…ブルーは優秀、憂鬱を意味する。前に本で読んだ知識が、ふと思い出された。憂鬱な気分ではなかった。かといって気分爽快であったわけでもなく、なんというか…無性に何かにあたりたかった。優秀だなんて、もっともっと見当違いだ! テストの出来はひどかった。本当に、お話にならないくらいひどかった。数学の二科目めの途中で投げ出して居眠りを決め込んだ。試験のため出席番号順に着席したせいで、栄太の背中や逆立てた髪がひどく遠く感じた。いつも前後に座っていて、久しぶりに離れたから変な感じがするだけだってわかってるけど、僕にはそれが栄太との差に思えてしかたがなかった。枕代わりにした両腕から少し頭を持ち上げて様子をうかがう。栄太はちょっと首をかしげるようにして考え込み、でもまたすぐに計算を再開した。あきらめない。まわりの奴らもみんなそうだ、途中下車した奴なんていない、当たり前だ、ここは進学校で、僕も栄太も国公立目指してる受験生で、他のみんなももちろんそうで、ぶつかり合い牽制し合い、競争しながら少しでも人より前に出ようと、少しでも人より先に立とうと、そのためには競う意志のない者はいらない、途中で降りたがる奴はいらない、僕はいらない、僕は…っ …試験終了の合図がかかった。
「お疲れさま、真志っ」 …僕の教室にはもう誰もいなくって、メイと昼御飯を食べるために僕だけが一人残っていた。 「……………」 僕が黙って机にうつぶしている間にも、メイはさっさと僕の机の前にもう一つ机をくっつける。その上に、とん、と置かれたお弁当包みは、いつも使っているメイのお母さんの手作りのものだった。藤崎芽依、と小さい縫い取りがある。高校生にもなって恥ずかしいと、一年生の時にメイは言っていた。 「どうしたの?ごはん食べないの?」 まだ一科目試験が残っているというのに、メイはいたって元気であった。…今日の理系の科目は、芽依の得意分野だ、そういえば。 「そっか、今日は数学と理科だもんねぇ、めげる気持ちも分かるよ、うん。あたし だって英語と国語の後はだいたい死んでるもん」 …しんとした教室に、メイの軽やかな声が流れる。ここあたりの教室はみんな文系だから、生徒はほとんど残っていない。目つきの変わってきたクラスのみんなはもういない。 僕はゆっくり体を起こした。おおよそ、受験生臭い切実さを見せないメイは、僕を少しだけ救ってくれるような気がした。なんだかにわかに緊張して、決まり悪く顔を上げた僕とメイの茶色の瞳がぶつかる。メイがニッと笑った。 僕は、今朝衝動的に買ってしまったメイへのプレゼントのことを思い出した。自分の昼御飯を買うときに、ふと目に止まったものだった。 「………やる」 「何?……あ!」 瞬間、メイの顔がうれしそうに輝いた。 「カツサンド!昨日言ってたこと、覚えててくれたんだ�B」 「…美人の食いもんじゃねぇよなぁ。まぁ、お前なら大丈夫」 僕はつい、憎まれ口をたたいてしまった。けれども、それを気にした様子はない。 「よかったあ、実は朝遅刻しそうになってて、お弁当買ってこられなかったんだ」 「え?じゃ、その弁当包みは?」 「………なんだと思う?」 メイはいたずらっぽく問いかけた。僕の答えを待たずに、自分から包みのひもを解く。 中から出てきたのはプラスチック製のバスケットで、半透明になっていて中のものが透けて見えていた。僕は中身をついつい凝視してしまった。なぜなら、その中にあったものは僕が思いだそうとして思い出せなかった、 「シュークリーム!」 僕たちは同時に言った。メイが僕の反応を見て満足そうに笑う。 「昨日、家に帰ったらお母さんが作っておいてくれてて。真志、好きなの?」 「…そういうわけじゃないけど、」 「ふぅん?…それで、すごくおいしそうだから一個食べてみようと思って半分に割 ったらね、」 メイはひとつを掴みあげ、大人を驚かそうとする子供のような表情で、僕にその中身を割って見せた。 「ね?あの葉っぱの色にそっくりでしょ?」 ………ああ、という言葉は声にならなかった。びっくりするくらいに濃いクリーム色のカスタード。なんだかとても、言葉にできないくらいに僕は気が高ぶっていた。あのとき僕は口に出せなかったから、メイは知らない。メイのお母さんがシュークリームを作ったのも、偶然だ。だからこれにはなんの裏もない。なんの裏もないけど、ちゃんと伝わってるんだ。小さなことだけど、本当にぜんぜん大したことじゃないけれど、それでも…それでも僕は信じたいんだ、誰に否定されたって。本当に本当にごく偶に稀でかまわないから、誰かに認めて欲しいんだ。 …裏のない奇跡だって、本当はあるんでしょ?
第四土曜日の校庭には、いつもならそこにあるはずの部活動の練習風景もない。おかしなことかもしれないけれど、土曜休校の時には部活動も休みになるというのが、この学校の決まりであった。おかげで、静かな第二・第四土曜日は、模試の試験日に当てられることが少なくなかった。 理系の生徒たちが下校する姿がちらほら見える。学年全体の中で、理系の生徒は文系の約三分の一。狭い範囲の競争で、試験の度にメイがどれだけのプレッシャーに耐えているか、僕は知らない。 僕たちは昨日と同じように、昇降口からバス停までの短い距離をゆっくり歩いた。昨日はそれほどでもなかったのに、今日になって風がやけに強くなった。気温はあまり変わらない予報だったけれど、強風のせいで体感温度はずっと低くなっているのだと僕は思った。 僕たちは、吹き付けられる冷たさに後押しされるように、どちらからともなく手を繋いだ。風邪をひいたようには見えないのに、子供体温なのだろうか、メイの手は温かかった。そして一年生の時よりも、ずっと小さくなったように感じた。 僕たちは、ずっと同じであるわけじゃない。僕の身長は二年前に比べて八センチも伸び、メイは長く伸ばしていた髪を切った。僕は… 僕は、ずっと気がつかないふりをしていた。よどむことなく流れていく日々の中で、僕たちは少しずつ、けれども確実に変化していく。僕がメイと会えたことは、確かに小さな奇跡だった。今までの二年間は、僕たちにとってとても、とても大きなものだ。だけど…僕たちの道は、明らかに別れているのに。 大銀杏の下で、僕たちはまた立ち止まった。昨日とは違う明るい午後の陽の中で、銀杏の葉はますます明るく…暖かく照り映えていた。 「きれいだね」 メイのつぶやきを聞きながら、僕は銀杏のクリーム色のさざめきに目を奪われていた。大きく広げた腕のような枝々を見上げていたら、だんだん目が霞んできた。乾燥した空気がしみる。僕たちが両手をいっぱいに広げてもかかえきれない大きな幹は、二百年もの時間をどんな気持ちで送ってきたのだろう。…この樹にとっては、僕たちの二年間なんて居眠りの間に過ぎていく夢に過ぎないのかもしれない。じゃあ四十六億年も生き続けてる地球にとっては…それこそ本当に刹那でしかないんだろうなぁ。 それはあまりにも飛躍しすぎているけど、例えば僕が年を取って、もっともっと年を取っておじいちゃんになったら、今のこのときをどう思い出すんだろう。…取るに足らないものと思うようになってしまうのだろうか。嫌だ! 僕はメイの手を握り直した。メイはちょっとこっちを見た。けれどもまたすぐに、銀杏の方に顔を向けてしまう。は、と吐いた息がすぐに凍えて白くなる。寒さに赤くなった耳が、ひどく痛そうだった。 北風が足下にからみつき、散らされた葉っぱが僕たちの所から走り出していった。 「きれいだね」 …僕たちはいつまで一緒にいられるんだろう? つないだ小指から、じんわりメイの温かさが伝わってくる。
「……きれいだね」 僕たちはずっと、その場を動けないでいた。
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