文  


     道のうえ/その日(�顱法 ”秧討倭澗�力で家から走った
     2003年08月23日(土)

 馴染みの喫茶店には人も居ず、席に着いたところでマスターの出てくる気配も無かった。待ち合わせに指定することの多いこの店に一人でふらりと入ったのは、学生の頃以来かもしれんとしみじみ思う。外はもうだいぶん暗く、窓から覗いた夜の空にひょろりと月が垂れ下がっている。
 やれやれ、と一息おいて、湿っぽいハンカチを取り出し額をぬぐう。店の中はいつになく薄暗い。はて、外の方がいっそう明るいかもしれん。しかしここには屋根がある。座る椅子がある。何年かぶりに走ったせいで息が切れていた。
 店は二階建てである。年を取ってからは階段を昇り降りするのが辛く、たいした段数でもないのに一階ばかりを利用している。全体で大きな店でもないが、二階に比べても一階は席数が少ない。厨房とカウンターに面積を取られている。女房やら娘息子やらに言われると癪に障るのではあるが、やはり窓際の狭っ苦しい場所にいるとひどく心が落ち着いた。首を回すと、くに、くに、としなちくを噛むような音がする。肩にも首周りにも、ずいぶんと肉がついたものだ。すべき仕事もそうそう無く、ぼんやりと椅子に座っているばかりの勤め時間には、首を捻ったり回したりが最も邪魔にならない暇つぶしであることよ。肩が凝っているような気がするのだが、自分で揉んでみたところでちっとも解消しない。
使い古された体のテーブルの上には銀の灰皿が載っている。そろりと引き寄せてから懐へ手を遣って、背広はとうに家で脱いできてしまったことを思い出した。スウェットには内ポケットも襟も無く、銀紙を一面開け放したハイライトが入っているはずも無かった。ハンカチは何故持っていたのだろう、おお、握り締めて来たのであった。
 店の中をぐるりと見渡す。マスターが出てくる気配は無い。ここでもまた埒もあかぬ暇つぶしを繰り返すだけかと思うと、途端にひどく嫌な気が込み上げた。ととん、と気ぜわしげにテーブルを指で叩く。神経質そうで嫌だわあ、といつだったか女房に言われた。生真面目が服を着ていた若い頃ならともかく、今のあんたにはただ不恰好でお行儀悪く見えるだけだわよ。
 ふん、大きなお世話だ。
 ととん、と叩く指は無意識である。意識して止めるには無意識に気付かねばならない。気付いても窘められなければ止めてやる理由は無い。自分は半ば得意になってテーブルを叩いた。
ととん、とととん、ととととん、とととととん。カパコポ。
 おや、と思う。無人の店のこの狭いフロアのどこかから、確かに自分以外のものの立てる音が聞こえた。
 とととん、ととん、とカパ、とコポ、ととカパコポとコポん。
 意識して視線を店中にめぐらす。そしてまた、おや、と思う。自分の視界の右隅で、とことん、とことんと動くものがある。まじまじと目を凝らして見ても、相手の姿の変わることはない。それは革張りの椅子である。四本の脚をぴんと張ってまっすぐ前を見詰めるその様子は、興味をひくもの危険を感じたものに注意を向けた犬のようである。ととん、とテーブルを叩くと、コパコポと脚を踏み鳴らす。ニスの下にかすかに残った木目のすじが筋肉のように引き攣れるのを、眇めた目の奥でようやく確認した。椅子は背もたれの蝦茶の皮をそらす。ぶるん、ぶるんと息巻いて、前脚で宙を掻いた。おや、馬だったのか。
 席を立つと、自分の影がぬらりと床の上に落ちた。とうとう店の中はあのひょうたんのような月あかりにも負けるほどの暗さまで落ち込んでしまったではないか。やれやれ、と息をつく。マスターの出てくる気配はやはり無い。カウンターから身を乗り出して厨房の中を覗く。しんと冷たい沈黙だけが、手をついた木材のつるりとした表面から染み出している。ふふん、椅子の正体が馬だなどと、マスターでさえも知らないに違いない。
 同年代でありながらやけに若く見えるマスターのことを思い、かたや近頃めっきり無理の利かなくなった自分の体を思い、嫌な気がまた胸をかすめた。しかしそれが何だというのだ。自分にはあの馬がいる。
振り向いたその先に、ぽつんと彼は佇んでいる。窓からの月の光は皮の表面をてらてらとなめる。息をひそめて目標に近付く。馬は、再びぶるん、ぶるんと鼻を鳴らした。滑り止めのゴムに覆われた蹄がせわしなく床を打つ。革張りのどこかに黒目がちの大きな瞳があって、獰猛な期待を込めてこちらを見詰めているのだ、と確信した。おお、走り出してやろうとも。興奮が鼻の奥から指先まで乱暴に駆け巡り、頭の中にはでたらめな旋律でファンファーレが鳴り響く。走り出したがっているのはこの馬だ。だから自分は仕方なく乗って行ってやるのだ。
 ひらりと背に飛び乗った自分は黄金の太陽を背負っている。馬は満足そうに雄雄しく嘶き、たくましい四肢には狂ったように血が巡る。さあ、店の扉を蹴破って、そのままどこへなりと行くがいい。追いすがるものなど家族であっても振り払ってくれよう。そうだ。だから。早く走れ。走り出せ。
 電灯の消えた店の中、背もたれを前に椅子に馬乗りし、中年男はいつまでも体を揺すっていた。かぽかぽこぱこぽかぱこぽ。

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