文
- 道のうえ/その日(�鵝法 〔爾亘萋�風呂場で自分の脚を眺めている
2003年08月26日(火)
右足の薬指の上に剃刀を滑らせた瞬間、微かに痛みが走ったと思ったのは錯覚ではなかった。唐突に時間が止まって、ふるりと緊張が解けた途端にじわりと血が滲んだ。剃刀の刃のあいだをつるりと視線で撫でると、薄い肉が貼りついているのが確認できた。 薬箱を戸棚から出して、絆創膏を探す。父はもう五十を過ぎ、母も四十のもう半ば、弟は今年で二十一になる。小さな子供のいないこの家では、絆創膏が必要になる機会などそうそう無い。もしかしたら見つからないかもしれないと思ったが、ちゃんとあった。何年も使われなかった証拠に、薬箱の隅に追いやられ丸められてはいたけれど。 居間の絨毯の上に両脚を投げ出す。濃い臙脂色は母の趣味。ダークな色に比べて自分の脚の貧弱な白さが際立って、苦い気持ちが込み上げた。好きで女に生まれたわけではない。 風呂上りだというのにさっさと血の色の引いた自分の肌に指を滑らせる。膝を曲げて背を丸め、足指にまで辿り着くと、そこにはもう赤い血は流れてはいなかった。念のために消毒をして、ぺたりと古びた絆創膏を押し当てる。肌やら無駄毛やらの手入れをするのは義務だ。大学を卒業してからまるで遊びのような仕事しかしていない娘ももう二十六、さっさとどこかの家へかたづいて嫁いで欲しい、そう言外に両親が示すのも無理はない。これは諦めだろう、と思う。はじめから期待など受けてはいなかったのだから。 ガーゼと粘着テープに覆われた傷口をぼんやりと見詰める自分の頭上がふと暗くなったことに気づいて顔を上げると、そこにあったのは弟の顔だった。無言で唇を押し付けられる。 「やめてよ、いつまでも子供のつもりじゃないでしょう」 右手で相手の顔を押しのけて、俯く。平静でいられるのは慣れているからではなくて、ぞっとするほど現実感が無いせいだ。 「減るものでもないじゃない、いいでしょ別に」 下を向いた顔を上向けることはすぐに諦めて、弟である男は姉である私を自分の胸の中に抱き込もうと動く。私はするりと立ち上がった。どうせ深追いはしない。部屋に戻ってしまった方がいいのだ。 「お風呂、空いたから。とっとと入ってきなさい」 踵を返して二階への階段に向かう背後で、ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。 家を出て行った上の兄弟は、そういえば今年いくつになるのだろう。この家が四人家族になってそう長くもないはずなのに、どうも記憶がぼんやりしている。何かおかしいような気もするけれど、それがどうしてなのかはわからない。毎日朝起きて家族の食事を用意してファミレスに行って、一日アイスクリームばかりかきまわしている。「本場の手作りアイスクリーム」が売りなのだ。作ってるのはまるでアルバイトみたいな契約社員なのに。帰って来たらお風呂に入ってすぐに夕食の準備、父が帰って来たら一家団欒。本当に、いつから団欒は四人でするものになったのだろう。 一階から呼ぶ声が聞こえる。母だ。夕食の準備を手伝いなさいと言う。階段とドアを越えて届いた音声は遠くてまるで夢の中にいるみたい、と思ったところでまた嫌な気分になる。一体いつまで逃避し続けるつもりだろう。 ゆらりと藍色の暖簾をくぐった私の顔を見て、母の眉が顰められた。 「なに、気分でも悪いの」 曖昧に笑って、首を振る。自分が普段からあまり血色のいい方ではないことくらい知っている。確かに気分はいいとはいえなかったけれど、思考が散漫なのも頭が重いのもいつものことだ。母が心配性なのも、父が夢見がちなのも、弟がただの男なのも、いつものことなのだ。なのに。 ああ。気分が悪い。 父は夕食の準備ができると狙い済ましたかのようなタイミングで玄関を押し開ける。おかえり、という明るい母の声が団欒の始まりの合図。弟が二階から降りてきた。のそりと緩慢でしまりの無い動きが今は例えようも無く癇に障る。目が合った瞬間から世界がぐらぐらと揺れ出した。気分が悪い。真向かいは父の席だ。スウェット一枚になった父は体中から中年臭さを発散している。一家の人間の数は四人なのにテーブルの周りに席は五つ設けられている。気分が悪い。ああ。気分が悪い。 揺れる視界の片隅で、しかし私は思いがけないものを見た。トンカツやら味噌汁やら箸置きやらと同じような顔をしてテーブルの上に乗ったそいつは、職場で毎日握り締めている銀のケーキナイフだった。するりと体中の熱が引いていくのを感じた。 「どうした、気分でも悪いのか」 父がそう問いかけた声はまるで空々しく聞こえた。頭の中の霧がみるみるうちに晴れていく。ここにあるはずのない凶器を逆手に振りかざした私を家族はあっけにとられた顔で見詰める。まるでコメディのように家族の団欒が停止した次の瞬間、ナイフの先端は弟である男の頭のなかにさくりと消えていった。
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