123 ヘドウィク×ムルソー×サクライカズトシ |
ここ最近俺が触れてきた映画、本、音楽のどれもがなぜか『不器用な愛』についてのものだった。幸運な偶然により、これらを絡めて、深く考えてみることができた気がする。 これらの作品はどれも、友人、家族、恋人、そして自分への愛が歪であるが故に苦しんでいる。そして結果としてそれはそれでいいんだよという結論を聞き手にくれる。 例えば映画「ヘドウィク・アンド・アングリー・インチ」の主人公・ヘドウィクは、おかまであるということはひとつの限定された愛の形を語っているようだけど、それはもっと抽象的にあらゆる愛の形へのメッセージとなっている。一番苦しんでいるのは、自分をさらけ出せないということであり、結果自分を愛せないことだ。恋人との関係はその先にある。 一方、小説「異邦人」の主人公・ルムソーは、自分をありのままさらけ出したがために、世間から排除される立場へと追い込まれる。自分をさらけ出したがために、ルムソー自身のありのままの家族や友人への愛が、不条理であるとされてしまう。でもルムソーはそのことで後悔はしない。どちらの作品も攻めてくる方向は逆であるけど、こちらに問いかけてくる質問は同じだ。「自分に正直ですか?」 そしてMr.Childrenの「掌」の中で桜井和寿が語るのは、「不器用な愛の形」である。これは恋人に対してもそうであるし、また生きていく上で接する全ての人との関係も含む。大きくは戦争に対してのメッセージですらあると捉えてもいいと思う。そう考えるととても大きな「不器用な愛の形」であると思う。 「ひとつにならなくていいよ 認め合えればそれでいいよ」というメッセージは、とても大きな意味を持つ。 同じ時期に触れた3つの作品であったがため、多少強引に関係性を求めちゃったかもしれないけど、俺にはこの3つがリンクした。どの作品にしても『不器用な愛』を認めよう、ということだったんじゃないかな?
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2003年11月22日(土)
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