NYA [HOMEPAGE]
NYAの思うところ

2003年04月08日(火) 偶然にもほどがある。

火曜日。確かそうだったはずだ。。なんだか、いろいろなことがありすぎて濃い日々だ。

今日は仕事も忙しく、なんだかゆっくりお茶も飲んでないぐらいだ。たぶん、元カレのことも引きずっていたりするのだろうが、どうにもこうにも、元気いっぱいというわけにもいかない。でも、昨日買ったニューマンの「看護論〜拡張する意識としての健康」を読みすすめてみて、自分の中でなにか変化したというか、たぶん無意識にはわかっていたことが、はっきり目に見えたのかもしれない。

その本を読んで確信したことは、自分の悩みとともにしばらくいることにしたいということ。−−−−清里でつかんだ分離への抵抗の感覚は、全体性に留まっていたいということ。悩みは、自分自身の今の状態を受け入れたくないから始まるが、悩みは悪いことでもなく、それはただ自分の中にあり、自分自身(全体性)に含まれているのだ。。−−− なので、私は自分自身(全体性)でいるために、悩みも受け入れることにしたのです。

というように、なんだか言葉遊びのように、自分の中で急に現実レベルに降りてきた感じ。珍しく職場にも持っていき、電車の中や、昼休みに少し読みすすめて、ますます、自分がなぜかここに書いてあることをすでに経験的に知っているような気もして、そして、今の自分の苦悩の状態は、私の今までのパターンを変化させ、新しい自分への刺激のようなものだと思ったりもした。

とりあえず、友達には元カレから、パーティ中も後もレスなしと愚痴ったりはしたものの、自分でその状態(愚痴を言ってる状態)にいることを受け入れていたのだった。そうはいっても、落ち込んでいることは落ち込んでいるのだが。。

すぽっくさんも今日からいなくなってしまい、打ち合わせたくさんあって、そしていろんな業務もあるし、結局9時ぐらいまで残業。地下鉄の駅からの帰り道。いつものように、鼻歌を歌いながら商店街を歩いてて、ふと、横をみると見たことあるような人が追い抜いていった。あれ?れれれ?これは、元カレではないか。なんかイヤホンをしてて呼び止めても気付かないので、肩をたたいたら、とまってくれた。なんでこんなとこ歩いてるの?ととっても不思議な気持ちと、自分の中の気持ちの変化がこういうことをおこさせたのかと笑ってしまった。彼は、隣駅から、わざわざものすごく大きくまわって歩いて自分ちまで帰ってるそうだ。ダイエット?一時期痩せたとかいってたのに、私の料理(食わせ過ぎ)のせいばかりではなかったと、彼の自己責任を追求もし、一昨日のパーティの話しも聞いたら、私のことが全くわからなかったらしい。。。。あまりにもいつもと違うから?

彼曰く、「おめかししてたからじゃない。。」って。。。来てることは知ってて少し探してはみたけど、わからなかったって。鈍感???ということは、私に挨拶してくれた人は、気付いてるけど、彼は、私をよくみてないということ?ええええええええ??????なんのために、あそこまでおめかししたのか。。まっ、いいか。。。がっかりですね。

というわけで、ごはんもまだだったので、一緒にそばやでそばを軽く食べて帰ってきましたよ。。。しかも私お金なかったのでおごってもらいというか、また返したほうがいいのかな。。。まっ、機会があれば。

というわけで、なんだか、つきあう前の時間のようだった。髪型もそんな感じだし。今まで2年間ぐらい1回だけクリスマスイブにすれ違ったことしかなくて、今日もなんだかよくわからない偶然でしたが、私の守護天使がみかねて、私にちょっとした贈り物をくれたのかもしれない。。

とにかく、世の中は二元論になりがちで、いろいろなものを分離してしまう。善悪憎愛生死など。。。でもそれを全部一度にもっているのが人間、意識、宇宙の中にある大きな意識なのかもしれません。

と、ほとんど日記になってないですが、今日は、6日のパーティ、7日のエキサイティングする理論の本、8日の偶然、それらすべてが、この分離と全体性につながっているような気がして、ここに書いてみました。

悩みを受け入れて、とことん、自分のものとするのも、悪くないものですね。いつか、おおいなる意思が別なもっといい贈り物を用意してるのかもです。では、おやすみみみみ。


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